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著者名
著/岡本太郎・監/平野暁臣 判型/頁 A24取/96頁
定価 1,000円(税込)
発売日 2010/02/09
岡本太郎が遺した躍動感溢れる「書」を収録。
「そもそも字と絵の表現は一体のものだった。
象形文字のいわれや変遷などをたどらなくとも、
無心に楽しんで字を書いていると自然に絵になってしまう」。
岡本太郎はそう言って数多くの書を遺した。
それは字とも絵ともつかない独創的なもので、
ともに内面から溢れ出るイメージの表現であって、
彼自身は区別していなかったに遺いない。
この太郎の書を約40点収録。書には彼の言葉を添えた。
ー上記小学館HPより引用ー
太郎象形文字の魅力
5年前、平野さんから「太郎の面白い字があるから是非!」と紹介頂き太郎さんの「遊ぶ字」と出会った。太陽の塔を初めて見た時に感じたのと同じ不気味さとふてぶてしい存在感。文字を素材にしているにも関らず、それは書、絵、書画、いずれの枠からもはみ出ていた。その暴れん坊ぶりに思わず墨を磨り臨書(模写・絵でいうデッサン)をしてみた。造形や空間の中に深く潜入し、自らが太郎さんの筆となってそれを握る太郎さんの“こころ”と対話し、解釈を試みたのだ。
止めや払いなどの筆法、筆順、線の長短、結体、字傾、線の痩肥、あるべき物が無かったり多すぎたりと、書的な決まり事には一切お構いなし。3500年の書の歴史をあざ笑うかのように太郎さんは漢字と共に闊歩する。こりゃー何て字?!と首をかしげ暫し睨めっこすると、文字の形態や作品全体の模様、色彩がヒントとなり、最終的に何故か読めてしまう。まるでナゾナゾのような字、更に可読後には人の表情や仕草、何かのシンボルにまで見えてくる。
最たる特質は、切とうねり、痩肥を加えながら四方八方に乱舞するS字曲線だ。どこから書いたかまるで分からない、さらにその連続で象られる文字もやはりどこが始点か終点かも分からない。書道史上の名筆と徹底的に闘ってきた私だが、この「太郎線」には頭から湯気が出そうなくらい解釈に困った。外へ外へ、グイッグイッと放射状にはじき出され空間全体を支配する太郎線の角のような先端には、漢字自体と交信しその言霊の姿を形而下に落とし込むべく太郎さんの生命がパチッパチッと火花を散らしている。象形文字から発達完成した漢字や言葉に対するアニミズム的な取り組み、あるいは絵心を完全に失いのっぺらぼうとなった現代の漢字への太郎的アンチテーゼ、それが「太郎象形文字」の魅力であると私は思う。
分からなくていい、読めなくていい、ただ感じてほしい。
書道の作品集というと言えば個展やグループ展などの開催時に個人的に製本された図
録が大半、
書店にある書道関係の本は、ほとんどが趣味の書道、ハウツゥー本、口と
言葉で書道をしているレッスンプロのガイドブックやエッセー集程度。
今回の美術本出版においても、私はその「常識」とやらを打ち砕く。
オールカラーだと高額になってしまうこと、作品だけでは説明が無いから勉強したと
いう実感を持てない美や作品自体と対話できない人も少なからず、即ち売れないとい
うのがこれまでの書道業界人、出版関係者の常。書が芸術と言い切れない1つの理由
がここある。美術や陶芸の世界でもオールカラーの美術本は少なくない時代になった
し、しっかりした作品集を持たずにプロを名乗って生きていけるこの書道界の実情は
この先何十年経っても今まで通りモノクロ印刷の世界、個人出版の概念から抜けられ
ないのかもしれない。
例外や特例を作り続けてきた私の考えでは、「無理」「できない」は、大概の場合、
心持とやる気の問題なのだ。
そんなこんなで大手経済誌が出版元となり、バーコード付の作品点数62点、計80
ページオールカラーという何とも贅沢な本に仕上がった。色校正3回という出版業界
でもあまり例がない徹底した色へのこだわり、一色の芸術である書というジャンル、
カラーになれていない書道界への自分なりのアンチテーゼ、書の新しい見せ方を模索
し続ける拘りと足掻きの表れなのか。
ゴールデンウィークを返上し美術本用の印象写真の撮影をした。
東京にてランニングと臨書を、数日後に栃木のスタジオにて作品制作シーンを撮影した。
カメラマンの野瀬勝一氏とはみずほ総研Fole以来、既に長い付き合いとなり、いつ
も最高の写真を提供してくれるので何の気遣いなくスムーズに撮影は進められた。
今後の海外展開、海外のブックフェアに出品できるよう英語キャプション付けることとなった。
プリンストン時代の仲間、プリンストン大学のデビット・ハウエル教授、小野
桂子先生、エリック・コバヤシ・ソロモン氏に多大なるご指導ご支援を頂き、
本当に素敵な英語キャプションや文章を頂いた。
作品集をお持ちの方は既にお気が付きかと思いますが、同じ素材でも邦題と英題は、
私の制作意図との兼ね合いのもとに全く違うタイトルが付けられた。
映画「アキレスと亀」以来お世話になっているオフィス北野の皆さんの手厚い取り計
らいで、北野武監督から帯文を頂けるというとんでもない事態となった。
「この人の作品、狂ってるわ」、夢のようなお話に数日間、仕事に手がつかなかった。
つづく
「花鳥風月」などが提案されるが全く面白みを感ず却下、自分らしいという意味でまっ
たくピンとこない。骨組みを決めるの最終会議直前、「風林火山」というアイデアが
突如浮かんだ。自分の代表作となった「風林火山」、「風・其疾如風其・の疾きこと
風の如し」、「林・其徐如林・其の徐(しず)かなること林の如し」「火・侵掠如火・
侵し掠めること火の如し」「山・不動如山・動かざること山の如し」の4章で区切り
多種多彩な作品群を分けて行くと作品の裏側に隠されている私のテーマ性のようなも
のが浮き出てくるような気がした。「風・・・新しさ、斬新さ、発想性、切れ、、、」
「林・・・静寂感、洗練、書的、品格、、、」「火・・・怒り、ダイナミズム、パワー
、シューリアル、、、」「山・・・存在感、核、永遠、祈り、普遍、、、、」、同じ
ように見えるトランスワークでも淡墨の一字書でも、同じ素材の作品でも表面的な文
字や素材、表現とは異なり、私の制作意図によって違い或るものは「風」の章に、或
る物は「火」の章へと組み込まれて行った。
また、1999−2009年までのこの10年間に発表された作品に限り収録する事、
作品の出来栄えや自分のお気に入り順、書道界での受賞作品だからという意味合いは
完全に捨て、美術本全体のバランスや彩りを重要視した。その結果、代表作の一つで
ある超大作「不死鳥(1995年)」「四時逸興・・・(2001年)」、毎日賞受賞作「衝
天(1995)」などは今回未収録となっている。
つづく
企画から発売に至るまで構想3年、編集1年という長い歳月を要してしまった。
掲載する頁数の関係で、これまで世に発表した約1000点もの作品の中から先ず200
点、そして150点、100点と作品数をどんどん減らして行かなければならなかっ
た。作り出し落款印を押した作品の一点一点に物語と私の強い想いがあり、当時それ
を書いていた心境や状況などが鮮明にフラッシュバックし、いろいろと考え込んでし
まい作業が幾度も中断された。
「柿沼康二の中に何人の柿沼康二がいるのか」
書家仲間からもよく言われる。良い意
味でも悪い意味でも表現領域が広すぎ、とても同一人物が書いたと思えない表現、年
代や制作意図によってばらつきがあり、作品を減らしていくと同時に美術本一つ作品、
塊を形成していかなくてはならない。また、人か見ると同じように見える作品でも作
者である私の制作意図や狙いが天と地ほど違うものもある。一字書、大作、多字数と
いうTHEのつく書道本、ベタな区分けは避けたかった。
つづく
入り、サイン入れや梱包、発送等がスムーズに進まず、大変ご迷惑をおかけいたして
おります。
今回の美術本は、2008年みずほ総研「Fole」で年間表紙を担当した事がきっかけでこ
の企画が生まれました。
「Fole」でデザインを担当している市川事務所社長の市川さんが出版社や新聞社をご
紹介下さり、二転三転した結果、東洋経済新報社から出版する運びとなった。
当初はエッセイなどをまとめた単行本を出す話しで進んでいたが、そういう本はいつ
でも出せるし作家の本質的な部分とは少しずれるので、やはり国内外で活動するアー
ティストとして先ず硬派な作品集を作りましょうという東洋経済新報社と市川事務所
の意見に共感し、企画は急遽美術本のラインとなった。
つづく
(1面)右卿賞に柿沼康二さん
高知新聞社と手島右卿顕彰会(小池唯夫会長)が主催する「手島右卿賞」の選考委員会は28日、本年(第4回)の受賞者、受賞作に栃木県生まれで東京都在住の書家、柿沼康二さん(38)とその作品「風神雷神」を選んだ。
同賞は、<書>を世界的な芸術にまで高め、昭和62年に逝去した安芸市出身の故・手島右卿の業績を顕彰するため平成18年に設けられ、共同通信社が共催している。書を中心とする芸術分野で優れた創作活動を続ける将来性豊かな60歳までの作家とその作品を表彰するもので、今回は平成20年の1年間が対象。
同賞選考委員会は、個展や雑誌の表紙などにも現代的でシャープな作品を発表し国際的な活躍を続ける柿沼さんの作品群と書のパフォーマンスにも注目。伝統的な書の精神と感性豊かな造形性が前衛的な世界と見事に融合していると評価、授賞を決めた。柿沼さんは「これを機に世界に通用する作品を目指したい」と喜んでいる。
表彰式は右卿の命日の3月27日に高知新聞社で行い、受賞記念の「柿沼康二作品展」は3月27日から4月1日まで高知市の高新画廊で。入場無料。
(18面)
手島右卿賞 選考過程
書壇関係者の間で話題となっている「手島右卿賞」。第4回の今回は「将来性豊かな若手」か、「ベテランの安定した力量」か・・・などを焦点に選考委員会では白熱した議論が展開された。一時は、受賞見送りも考えられたが、賞の原点にまで立ち戻って真剣な討議を続行。最後は委員全員が一致して若い柿沼康二さんへの授賞が決まった。
東京・丸の内、東京會舘で開かれた選考委員会。冒頭、右卿顕彰会の小池唯夫会長(前パシフィック野球連盟会長、元日本新聞協会長)と副会長の藤戸謙吾高知新聞社長が「この賞の評価は年ごとに高くなっている」「より一層の発展のためにも素晴らしい作家の作品を選んで生きたい」とあいさつ。
新しく選考委員に加わった日本を代表するアートディレクター、浅葉克己氏らが紹介された後、細田正和共同通信社文化部長を選考委員会主査に選出。右卿の長男で同顕彰会副会長でもある書家・手島泰六、美術評論家の武田厚、詩人の加藤郁乎の各氏(京都現代美術館の梶川芳友館長は文書で回答)が、細田主査の司会で選考を開始した。
まず、顕彰会の山野光男専務理事、石渡光一、小松康夫の両常務理事、池添正、野口幸雄の二理事や事務局が候補作家として用意した資料類、作品などを参照しながら第一次の絞り込み作業に。「名前だけが売れすぎて実力的には疑問がある」などの著名な書家らは落選し、結局、東京、ニューヨークなどを拠点に国際的で多彩な活躍を続ける柿沼康二さん、NHK連続ドラマ「篤姫」の題字を担当した菊池錦子さん、みずみずしい感性がにじむ土橋靖子さんらの若手が候補に浮上。新書派協会の土井汲泉さんらのベテランや若山象風さん、小澤蘭雪さんや、梶川委員推薦の前衛的な仕事を発表するMAYA・MAXさんも候補に残った。
最後の絞り込みの段階。細田委員が強く推す柿沼作品が最有力となったところで、議論はにわかに白熱・・・。
柿沼作品は「受賞に値する」ということでは全員が一致したのだが「それにしても若すぎる」「賞は来年でも遅くない」「仕事が多様、多彩すぎて本質が見えにくい」などの意見も登場し「もっと作品世界を絞る必要がある」。そして、「柿沼受賞で”独立書人団”の書家が続く」として「今回は見送り来年以降でもいいのではないか」との指摘もあり、「同じ”独立系”で賞に値する重鎮もいる」との声も出た。
選考は暗礁に乗り上げた格好だったが、最終的に右卿賞は「60歳」までの「将来性」豊かな<作家>の昨年「一年間」の活躍などに対して贈られる”書壇の芥川賞”だという原則論が浮上。「右卿さんが目指した世界的な芸術を模索している」「若すぎるということが賞の障害にはならないし、賞に値する作家だと全ての委員が認めている」として結局、全員一致で柿沼さんとその作品「風神雷神」を第4回の右卿賞に選んだ。
受賞の柿沼康二さん(38) 無限に続くもの 純粋に
受賞の知らせが届いたとき、書家、故・上松一條さんの家で”遺作展”の準備をしていたという。
「若い自分には無関係な”賞”だと思っていたんで、本当にうれしい。まさに、奇跡的なお話です・・・」
東京、大田区馬込の仕事場。あの独特な墨の香りが漂う中でしみじみと喜びを口にするが、その髪はなんとも不思議な金髪だ。米国にも拠点を置き、ニューヨークなどで精力的に披露する「書のパフォーマンス」を意識した”装い”なのかもしれない。
昭和45年栃木県矢板市生まれ。体育教師だった父は「柿沼翠流」という雅号を持つ書家で、右卿のお弟子さんだった。その影響で5歳から筆を持ち何の疑問もなく書を開始する。高校時代は書のほかに、サッカーやバンド活動にも余念がなかったが、高校一年の体育の日、父に連れられて鎌倉市雪ノ下の右卿の家を訪問。あの気難し屋の右卿が「チビ、よう来たな、ま、上がれ」と歓待してくれ、「今度何か書いて持って来い」。
すっかりその気になって毎月一回鎌倉に通い、血のにじむような修練を通して真実の書に迫るという”基本姿勢”を右卿からしっかりと学ぶ。東京学芸大学教育学部芸術科(書道)に進学。右卿没後はその同志でもあった上松一條に師事し、素質が大きく開花。独立書人団に所属し独立書展、毎日書道展ほかでの数々の受賞歴がその実力と人気を物語る。現在は、独立書人団審査会員で、「柿沼事務所代表取締役社長兼所属アーティスト」の肩書もある書家だが、
「書はアートたりうるか、己自身はアーティストたりうるか」
という命題に挑戦。弟子を取って生活を支えたり、教職に就いて作品を発表する・・・などの一般的な書家の生活を捨て、書の奥深い精神性を自身のものにするために毎日最低5,6時間、飽きることなく「”飯”を食うように臨書する」という。
古典的な書の骨格と現代性が融合した作品の発表から、特大の筆を駆使してダイナミックで前衛的な世界を表現する「エターナルナウ」、同じ言葉を呪文のように書き連ねる「トランスワーク」と称される新表現などまで、その活動の幅は本当に幅広い。
ニューヨークメトロポリタン美術館、プリンストン大学ほかでさまざまなパフォーマンスを披露。TBS「情熱大陸」NHK「トップランナー」「課外授業ようこそ先輩」ほかのテレビ番組に出演。NHKの大河ドラマ「風林火山」のタイトルのほか、北野武監督の映画「アキレスと亀」(第65回ベネチア国際映画祭白い杖賞受賞)の題字なども担当し、多彩で華やかな活躍が注目されている。
伝統的な<書>の骨格を殊のほか重視する一方で実験的な芸術活動に精力的に取り組み、革新的な芸術を志向する。そんな”孤高”の姿勢が「書の概念、範疇を超え、現代アートにまで昇華させた」と国内外で評判だが、
「その折々に体の中から出てくる”無限”に続くものを純粋に表現したい」
「”純粋”という言葉に私自身をどこまで近づけてゆくか。そのためにも一生懸命”瞬間”を生きて、もっともっとがむしゃらに書き続けたい」
そして、今回の受賞を機に「たとえその時代の流れと異なるとしても、恐れることなく前進して自分の世界を表現して・・・ニューヨーク近代美術館にも収蔵されるような作品をつくりたい」。
気負いなく淡々と語る表情には”新しい芸術”を模索する求道者的な風格すら漂う。
(19面)柿沼康二の現代性と国際性−細田正和
本当に生きるとは・・・
個人的な2つのエピソードから本稿を書き起こします。
その第一は、2007年新春のことでした。東京・神保町の書店に貼られたポスターには、オレンジの地に毛筆で、こう書かれていました。
「なぜ 生まれてきたの」
中央公論社が創業120周年を記念し、社を挙げて取り組んだ「哲学の歴史」全12巻の刊行スタートを、高らかに告げるポスターでした。学生時代、哲学科の片隅に席を置き、カントやフォイエルバッハの原書に挑んでは惨敗を繰り返していた自分の「原点」を、30年ぶりに問い直される強烈な体験でした。
2つ目のエピソードは昨年秋、東京・京橋の映画試写室でのものです。世界的に著名な北野武監督の新作「アキレスと亀」が、イタリアのベネチア国際映画祭に出品されることになり、通信社の文化面エディターの仕事として、事前の試写に望みました。
北野監督の代表作の一本となるであろう同作は、冒頭のアニメーションから本編に移行する瞬間に、ダイナミックな毛筆でタイトルが出現しました。その迫力が、映画の成功の最初の起爆剤となっているのは明らかでした。
言うまでもなく、ともに柿沼康二氏の作品です。しかし、このときの私はそれを知りません。そしてその後も、本賞選考が本格化するまでは、柿沼氏のプロフィルはもとより、誰を師と仰ぎ、どの団体の会員であるのかといったことさえ、私の関心の中心ではありませんでした。氏の作品そのものが発する「本当に生きるということはどういうことか?」という問いだけが、重要だったのです。
それから少し時間が流れ、本賞選考のため多くの書家のお仕事を調べながら、手島右卿賞の本旨とは何か?と何度も自問しました。その結果、趣意書がうたう「現代美術としての真に新しい書」「世界的な芸術を志向する創造性」、そして「文壇でいう芥川賞のような色彩」−この3点に尽きると考えるに至りました。
すなわち、現代性、国際性、最前線の文学賞に拮抗する前衛性。これが柿沼氏を本賞に推薦する理由でもありました。対象作品は、昨年2月に米国ワシントンDCで開催された日本特集フェスティバルにおける書のパフォーマンスと、その図録における斬新な表現。さらに、みずほ総研情報誌「Fole」の表紙における「風神」「雷神」「心」などの作品群、そして上記「アキレスと亀」への揮毫−であり、その現代性・国際性・前衛性は、傑出したものであると認識しています。
もし芥川賞の本義が「人間が本当に生きるとはどういうことかを、現代の最前線で追及する文学」にあるとするならば、書において同様のテーマを追求する柿沼氏への贈賞は、書壇における芥川賞たらんとする手島右卿賞にとって、誠にふさわしいものであろうと考える次第です。
現代の日本には、生きる実感をもてない若者や、不況下で自己喪失感に苦しむ人が増えています。伝統をふまえた厳しい修練を自己に課しながら、高い精神性と孤高の姿勢から生まれる柿沼芸術こそが、不安で陰鬱な時代の病を救済できるのではないかと考えるのは、ひとり私だけではないと革新しています。(共同通信文化部長・さいたま市見沼区在住)
(記事:高知新聞社提供。新聞掲載画像は公式HP内にあります)
ART OF THE BRUSH http://japantravelinfo.com/modernart/m_brush.php
筆の芸術
私にとって書とは筆の芸術だ。だから文房四宝(筆、硯、墨、紙)の中で一つ選べと言うならば迷い無く「筆」と答える。そして書家にとって筆は侍の刀のようなものであり、作家の魂そのものといえる。
「書の醍醐味は臨書にある」師・手島右卿(昭和の三筆の一人)は言い残した。
臨書とは古典法帖を徹底的に模写していく作業のことで、書家にとって「息を吸う」ように基本を吸収する作業である。
臨書によって形象的理解から始まり、執筆や用筆法、運動性や呼吸等の応用へ発展させ、最終的には書き手の心理や生命力に迫るべく気の遠くなるような時間と強靭な精神力によって理解し身体に染み込ませる。
それは禅の修行にも似た作業であり、臨書というベースがあってはじめて唯一無二のオリジナル作品が己から「吐き出される」のだ。
それ無しでは、伝達記号である文字は書けても書き手の精神性や芸術的意味合いを伴った「書」にはならない。
私は毎日平均5時間の臨書をする。引く、突く、弾く、捻れ、開く、吊る、えぐる、名筆の中には無限の素晴らしい技術や表現が存在する。
臨書においてそれらを漏れなく表現したいと希求し続ける、即ちそれは表現への拘りに他ならない。
飽くなき臨書への取り組みにより腕も美観も日々進化し、それに比例して筆という相棒への要求も日々変化していく。
馬毛から羊毛(中国のヤギの毛)、サイズも千差万別、1000円のものから数百万円もする特大の特注筆まで、これまで1000本近い筆を購入してきた。
「僕は既にたくさん筆を持っているけど、懲りずにまた筆を買うのは、これまで以上に良い作品を書くためなんだ。書家が筆を買わなくなったら書家としての魂はそこまでお仕舞いということだよ」。
私と同じく書家である父が昔からこう語っていたのを思い出す。
穂の長さや筆の太さが1ミリでも違っても、その微妙な、わずかな違いは私にとっては決定的な違いとなる。
だから今気にいっている筆より良い筆は無いか、無ければ新たに開発できないものかと、筆屋に会う度に私は細かい注文をつける。書家の人生とは「筆探しの旅」なのかもしれない。
日本の筆の80%の筆は広島県熊野町という小さな町で作られている。
その例に漏れず私の相棒も熊野生まれだ。
この気難しい書家に付き合っていけるよう細微な調整がこれまでに何度も加えられている。
毎晩筆を持ち、熊野の筆の匠が作り出した相棒と語り合う。「次は何処にどういうふうに行こうか。お願いだがら付いてきてよ」と。
リンク
熊野筆 http://www.fude.or.jp/
今の自分に甘んじてしまったらそこでダメになる。
身体にも気持ちにも徹底的な負荷をかけて、
その先にあるものをつかみたい。
書家・アーティスト 柿沼康二さん
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心の深いところを揺さぶる 力強さに満ち溢れた作品
ロックミュージックを流しながらのパフォーマンス、独特の作風や技法など、常に「今までにはないもの」を作り上げてきた柿沼康二さん。その作品は「カキヌマアート」と称され、見る人の心の深いところを揺さぶるような力強さに満ちている。
「書」と聞くと、硯と紙に対峙して静の中で作品が生み出されていくイメージが浮かびがちだが、柿沼さんの作品はそれとは大きく異なる。畳何十畳といった大きな紙にバケツに入った墨と特性巨大筆を用いて全身で描き出す「超大作」をはじめ、同じ言葉を何回も繰り返し連ね、そこに新しい意味を作り出していく「トランスワーク」等、一見ではそれが字であるのか、絵であるのかの境が明確でないものが多いが、一度目にすれば作品全体から発せられる力に引き込まれ、決して目を逸らすことのできない不思議な魅力に取り付かれる。
柿沼さんが作品を生み出す前に必ず行うのが「己の身体に負荷を徹底的に与えること」。制作前にランニングを行うことも多いというが、特に雨の日には走りたい衝動が増してくるといい、雷すら「自分の上に落ちてこないか」と考えることもある。自分を奮い起こして高め、身体を痛めつけて、その先にあるものを見出す。この根源にあるのは「能力以上のものを引き出し、それを作品として形にしたい」という思いにほかならない。
柿沼さんが始めて筆を手にしたのは3歳のころ。書家である父柿沼翠流氏の影響だった。もともとは体育教師だった翠流氏は、昭和の三筆と称された書家・手島右卿氏に弟子入り後、教職を辞し書家としてのみ生きることを選択。一心に書と対峙していた。この父の姿を目にしながら成長していった柿沼さんだが、高校入学の頃はロックバンドを組んだり、サッカーに打ち込んだりと、書をたしなみつつも、書家になるという強い意気込みはまだ芽生えていなかった。そこに大きな転機を与えるきっかけとなったのが、「男は日本一になれる可能性のあるものを仕事に選べ」という父の一言だったという。
「当時サッカーは好きでやっていたけれど、漠然とこれで飯は食っていけないだろうな、と感じていました。そこにこの一言です。自分の持っているもので日本一になれる可能性のあるもの。考えた結果、行き着いたのが書でした」
それを父に話すと「お前が本気なら」と紹介されたのが父の師であった手島氏。晩年の手島氏は一切弟子を取っていなかったが、話を一通り聴き終わると「次からは何か書いて持ってこい」と柿沼さんに告げる。非常に抽象的な言葉ではあったが、これこそが「弟子入りを許可」されたというサイン。ここから柿沼さんの書家としての本格的なスタートが切られることになった。
手島氏に入門してからは1ヶ月に一度、手島邸に通い、半紙2枚8文字の臨書(りんしょ)を提出する。それに手島氏は「ちょろちょろっと赤を入れるだけ」。この少ない文字に全身全霊をかけて書き上げるという、まさにプロ中のプロの世界。この一連の僅かな作業を通して「以心伝心で学び」、師からメッセージを受け取っていく中で、何かが柿沼さんの心の琴線に大きく触れる。「10代の頃は過剰な情熱があって、それを色々なところにぶつけていたんですね。そして何も見えていない状態でした。それをどうしていったらいいのか、手島先生について学ぶことでその先が見えてきました」
結果、東京学芸大学教育学部芸術科書道専攻・芸術科養成コースに進学。ここでは芸術理論などを学ぶが、「ここには一流の講師も一流の講義もある。しかしこれだけでは超一流とは戦えない」、そう考えた柿沼さんは、土日も休むことなく書の稽古を積み、1日15時間書き続けた。手島氏の他界後に師事した上松一条氏が柿沼さんに教えたのが、「質より量。1枚でも多く書いた者が最後には勝つ」。24時間365日常に「書」を考え、持てるだけ筆を持ち、喜怒哀楽も体調も全て、書き手の全人格が作品に投影されてこそ、文字の背景にある物語が表現できることなのだと。経験から得られる書のあり方とは何か。柿沼さんは身をもってこれを会得していったといえるだろう。
日々の瞬間のほんの少しだけの差 この違いが大きな違いに繋がる
柿沼さんのこの地道な努力は、脅威的な速さで大きな成果として花開く。新人書家の登竜門といわれる毎日書道展の毎日賞。柿沼さんがこの賞を受賞したのは25歳のとき。27歳のときには財団法人独立書人団の審査会員に推挙されるなど、30歳を前にして名実ともにプロの書家としての地位を築き上げるが、「そこに甘んじたら後退してしまう」と柿沼さん。そのあくなき姿勢こそが、作品の発するエネルギーの源なのかもしれない。
柿沼さんの作品に共通して言えるのは、いずれの作品も平面でありながら「3次元に見える」独特の構図。これは高い技術によるところが大きい。「真のアーティストである以上、作品に命を宿せるかが大きなポイント。打算的に自分でスタート、ゴールを設定したのではアーティストとしての作品は生み出せない。大衆にわかるようなものばかりを作るようになったら、あっという間に消えてなくなってしまうのです」
柿沼さんがこうした思いにいたった背景には、実は書が日本の中で置かれてきた歴史も大きく関係している。これまで日本社会の中で、書は非常に曖昧な位置付けをされてきた。「音楽や絵はアートだけれども、書は違うと言われる。東京芸大に書道科がないのもその一つの表れで、アーティストを養成するための視察を外国で行うといった場合も、書はそのカテゴリーの中に入れられてこなかったんですね。では書とはなんなのか、その曖昧さを払拭したいと活動してきましたが、その概念そのものを覆すのは難しいのです」
であれば、と行き着いたのが「概念云々を言う前に、自分がアーティストであり、その作品がアートであればいいのではないか」という想いだった。その情熱、衝動が柿沼さんの目を海外に向けさせる。
「この国を一度離れて俯瞰的な視点で書を見つめなおさないといけない、さもないと自分がダメになると思いました。そのとき思いついたのが、世界中のアーティストが集まるニューヨークという街。ここで生み出したのが独特のトランスワークという手法。そして、おまえは誰だという自分への問いかけに、自分は自分でしかないという揺るぎない自己の確立でした」
このニューヨークでの1年にわたる生活は、書家を越えたアーティストとしての部分を柿沼さんの中で大きく形成していくことになる。アメリカという国はオリジナルに価値を見出し、二番煎じ、三番煎じは「評価されないどころか、許されない」。誰が最初にそれを成し遂げたのか、そこに大きな評価が与えられる。まさに柿沼さん自身が追い求めてきたものがそこにはあったと言えるだろう。
「どこかで聴いた、どこかで見たことがあるではダメなんです。オリジナルとは、最初誰もがわからないものが出来上がるわけですが、それを楽しめるようになるには、それを受け入れるキャパシティが必要なんですね」
人々にすぐに理解されてしまうものとそうでないものとの差はどこから生まれるのか。「それはほんの少しの差。しかしちょっと違うことが大事なのです」と柿沼さん。ちょっと違うことを10年し続ければ、そこには大きな違いが生まれる。
25歳で一つの節目を迎えて以来走り続けてきた柿沼さんだからこそ知りうる「アートの本質」が、この言葉の向こうに垣間見えてくる。
一生認められないこともある それも覚悟の上のアーティスト
自身でも書き上げた作品が「書なのか、アートなのかわからなくなる」と語る柿沼さん。こうした発言や一連の製作過程は、ややもすれば前衛的な部分のみが特化し取り上げられがちだが、柿沼さんの書に対する姿勢に貫かれているのは、「基本に忠実であること」。これは決して変わることがない。
全ての作品の根底を支える日常では、歴史上の能筆家の古筆を徹底的に模写する「臨書」を日に5時間行う。これは師である手島氏が提唱した、古の型から新しい書を見出し追及しようとした「新古典主義」を受け継いだもの。新しいものを生み出す土壌とは、基本という素養が隅々にまで余すところなく行き届いたものからしか生み出されない。そして、基礎が一定の高みに達したとき、そこからこれまでにないものが生み出される。その身を持ってこれらを体現してきた柿沼さんが次に求めたものは、自分を超えること。日々、「1ミリでもいいから自分越えを」とあくなき挑戦は続いていく。
「自分が新しさを感じなくなったら、ダメになる。作品も生き方も、もっともっとわかりにくくしていかないといけない。目的が見えてしまったら、そこに追いついてしまうんです。もっともっと引き離していかないと」
しかし、「新しいもの」とは柿沼さん自身も語るように受け取る側に一定の度量の広さが求められるのは事実。ともすれば、自身の作品が時を経ても時代と大衆に受け入れられない可能性は否めない。柿沼さん自身もそれを十分熟知している。
「時代と大衆に認めてほしいという気持ちは誰しもありますし、私も持っています。いつか海外の美術館に自分の作品が収蔵されたらという夢もあります。だからといってそうならなくても、スタイルを変えることはありえない。なぜなら一生認められないこともあることをも覚悟できることが、真のアーティストだと私は思うからです」。
認められないことへの覚悟を持てるか否か。柿沼さんの作品から感じる不思議な魅力、その正体は作品に見て取れるこの「ゆるぎない覚悟」なのかも知れない。
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