新生・柿沼康二の誕生
渡米後、日本とアメリカのみならず、ロンドンやシンガポール、韓国などからいろいろな仕事のオファーが殺到し、すっかり家に引きこもってPCの前で事務作業や業務連絡に明け暮れるようになった。これまでのステイタスも人間関係もしがらみも全て日本に置いて、たった一人でここへ来ると自分で選んだのだから仕方がない。週一回NYに出かけたり、空手の稽古やランニングをしたり、食が合わないことから男料理を覚え始めたり、数は少ないながらもプリンストンでできた仲間達と食事やビールを楽しんだりなど、日本にいたときと全く異なる生活を送りながら、自分の精神を上手くコントロールし、アウェーでの一人暮らしとアーティスト業を進めていた。その中で、日本では思い浮かばなかったであろう発想を幾つも得ることができた。
柿沼式四曲屏風・コルトレーン1号
3月2日、アメリカ五大美術館の1つフィラデルフィア美術館でのパフォーマンスが予定されていた。事前に美術館と打ち合わせをしたところ、美術館の規則によりパフォーマンス会場となるメインエントランスには作品展示用のパーテーションを取り付けられないこと、フローリングを全体に汚してはならないことなどの要請があった。その制約を考慮して2,3日考えたところ、四曲屏風を利用する表現を思いついた。しかし日本から屏風を輸入するのは経費がかかり過ぎる。「それならいっそのこと、作っちゃえ!」という考えに至り、ホーム・デポ(ホームセンター)で材料を物色すること3回、とうとうアメリカ生まれの柿沼式四曲屏風を作ってしまった。全くもってアーティストスピリッツのなせる業と発想であった。物が氾濫しすぎる日本にいたら、こんな発想には絶対にならなかったであろう。その屏風には「コルトレーン1号」と命名した。
パフォーマンスの第一部では、屏風を寝かせて万葉集の四季の歌を揮毫した後に屏風を立てて展示した。そして続く第二部では屏風を立てた状態で、表に古典的表現で「風花雪月」、裏に返してその裏側に朱墨のトランスワークス(同じ文字を書き連ねる私の十八番)でアブストラクトな前衛表現を演出した。その試みは大成功だった。これまで壁などに重力を敵にしながら揮毫するパフォーマンスは、日本のTV局から依頼されても絶対に首を縦に振らなかったのに、今回は何の抵抗も無かった。視聴者への迎合やその場しのぎのパーテーションではなく、日本の家屋と寸尺という感覚から生まれた「屏風」という形式のキャンバスが、特殊な力を与えたとしか言いようがない。この発明品が、以後私のアメリカ展開において欠かせない相棒となり、行く先々で大活躍した。
リーハイ大学・滞在アーティスト招聘
4月下旬にはリーハイ大学より一週間、滞在アーティストとして招聘された。これは2005年秋に渡米した際、リーハイ大学関係者のエレン・ビアンさんとお会いしたご縁によるものだった。リーハイ大学はエンジニアリング文門では米国トップクラスの名門大学だが、人文やアートに対する生徒の関心が低いということから、数年前に大学の直轄で「アーツ・リーハイ」という機関が作られ、科学と人文・芸術が共存する環境を作りだそうと様々なアーティストを招きイベントを組んでいる。今回の私のような大規模招聘は大学初らしく、それだけに関係者の気合も心配りも一様ではなかった。内容も、月曜にレセプション、火曜に地元高校生とリーハイ大学生を対象に2つのワークショップ、水曜に大学シアターでパフォーマンス、木曜に屋外ワークショップ、金曜に超大作パフォーマンスと、5日連続で異なるプログラムが毎日組まれる前代未聞の荒仕事となった。
プログラム初日、マディソンから応援に駆けつけてくれた親友のイーサンとともにレセプションに参加した。私が着て行ったオーバーオールには「HE IS USELESS(彼は(私は)駄目人間)」の文字。そしてイースンはアーミーファッション。ベスレヘムの住民や大学生には、この日米凸凹コンビはかなり異質な二人に見えたようだ。彼らは胡散臭そうに私達を眺めていた。
KAKINUMAアート×音楽=ウルトラ前衛ライブパフォーマンス
水曜日のライブパフォーマンス「TRANSWORKS(トランスワークス)」において、元来「言葉」による説明を信じていない私は、何とか言葉を解さず、日本人にもアメリカ人にも対応し、飽きがこない時間でダイジェスト的に書の啓蒙的なパフォーマンスができないものかと模索し続けた。また前衛だけでは書の伝統性が薄れ、古典色を丁寧に説明しようとすると退屈なものに終わる、そのバランスも大事なポイントだった。
当初ミュージシャンとのコラボを検討していたが、友人の彼女から「コラボは時々にした方がいいですよ。この国ではソロでやった方が評価されやすいですから…」というアドバイスを受けてふと考えた。音楽好きという趣味感覚を完全に超越するほど、私の仕事に音楽は欠かせない。その音楽とKAKINUMAアートとの関連性を打ち出そうと考えたのだ。そこで閃いたのがipodの使用だった。日本ではまったく興味を抱かなかったipodを友人の勧めで購入したところすっかりipodフェチとなった私は、ipod音源をワイアレスでシアターのスピーカーに飛ばすというアイデアを思いついたのだ。作品を制作しながらその内容に合ったテーマ音楽を手元のipodで選ぶと、自分自身と観客共に聴こえるという仕掛けだ。ipodから流す音楽は最初から決め込まず、自分のアトリエで普段やっているように、雰囲気によってその場その場で決めることにした。U2、マッシブアタック、布袋さん、ケミカルブラザーズ、美空ひばり、バッハ、マイルス YMO、ツェッペリン、ブラックサバス、ピストルズ、そして永ちゃん・・・日米のロック、クラッシック、ジャズ、演歌、ドラムンベース、テクノとジャンルやカテゴリーを破壊するような私のいつもの選曲で空間を彩った。結果、観客をシアターという私の脳内に潜入させ、伝統書と前衛アートが入り混じる思考を音楽とともに見せるというコンセプチュアルなライブとなった。コルトレーン1号はここで六曲屏風のコルトレーン2号へとバージョンアップし、床の上で制作した作品を飾るパーテーションに、トランスワークのキャンバスにと、またもや大活躍した。さらにブラックライトや大画面モニターによる演出効果もあって、「書道」とか「日本」とかというカテゴリーを余裕で吹っ飛ばすような斬新極まりないウルトラ前衛パフォーマンスが実現した。パフォーマンス終了後、観客は総立ちとなった。きっと彼らは、「書」とか「日本人」とか一定の型にはまった見方をせず、私を、そしてパフォーマンス自体をストレートに感じてくれたのだろうと思う。
アーティストKoji Kakinuma始動
最終日の野外超大作パフォーマンス「The Eternal Now(永遠の刹那)」。パフォーマンスの開始を告げるアフリカ太鼓の鮮烈なビートが天空に木霊したとき、私はすでに成功を確信していた。「無駄は無駄じゃない」ということを改めて感じ入るくらいに緊張と余裕の双方を楽しんでいた。「いろいろあったがアメリカの最後の大きな一撃だな!母ちゃん、天国から良く見とけよ!」と天を睨み、神を引き寄せ交信し、一緒にダンスを踊った。掛け声と共に地球の核目がけて強烈な一撃を食らわせた。後は覚えていない。三秒間だけ自分が自分、動物柿沼康二になった。「南山」−Lehigh(リーハイ)と名付けられた真意を、純白の布地に漢字二文字で焼き付けた。
全てのプログラムが終わったとき、私を胡散臭そうに眺めていたはずの、学生達の態度がすっかり変わっていた。学内のどこに行っても人々に声をかけられ、”Koji, You’re Great!(康二、あなたは素晴らしい!)”と絶賛された。彼らからの大きなレスペクトを肌で感じ、私はリーハイでの成功をつくづく実感した。今回のアメリカ武者修行において、苦しみのた打ち回りながらも、アーティストとしてのプライドをかけて、言葉や文化や性別を超え、いくつもの型や壁をぶち壊してきた。そしてリーハイの一連の活動で、自分自身の限界を超え、心から楽しんだ。私はアーティスト・Koji Kakinumaとして、間違いなく生まれ変わった。日本人はダサい、書は古いなどと他者から言われることを嘆くのではなく、「俺のアートは新しくクールだよ」と自信を持って言える自分に大きく近づいた。
(日本書法2007年7月号)