兵藤ゆきのおじゃましま〜ッす!
上品なアバンギャルド!(上) 書家・アーティスト 柿沼 康二さん
マンハッタンのペン・ステーションからトレントン行きの電車に乗って1時間ほどでプリンストンに着いた。駅で書家の柿沼康二さんと待ち合わせなのだ。
今年のNHK大河ドラマの題字「風林火山」や、オープニングで次々に現れる書の作品群で彼の名はいっきに日本全国に知れ渡ったが、去年の9月からプリンストン大学客員書家(特別研究員)として現在彼はここで暮らしているのだ。
おっ、いたいた、まだら金髪の男こそ、まさしく柿沼康二氏だ。訪ねた日は大雪で、電車は10分ほど遅れたが、待っててくれたのね。こんにちわー、
「いやいや、えらい日になっちゃいましたが、よくいらっしゃいました。ほんとはここから2両編成のチンチン電車に乗ってプリンストン大学まで行けるんですけど、あいにくの天候で運行してないのでタクシーで行きましょう」
はい、了解でーす。
柿沼さんは、1970年、栃木県矢板市に生まれた。父親の同じく書家、柿沼翠流さんのすすめで、5歳から書道を始めたが、子どもの頃はサッカー大好き少年でJリーガーに憧れていたり、音楽好きでロックバンドを組んでいたりして、書はさほど真剣には取り組んでいなかったのだそうだ。
「そうなんですよね。でも、高校1年生のときに父が、父の師でもあり昭和の三筆といわれた手島右卿先生(1901年 〜 1987年)のところに僕を連れて行ってくれたんです。先生は僕をそばに座らせ、僕が書いた書を丁寧に全部添削してくださったんです。その間、緊張と感動のあまり僕の体はがたがた震えていました。そしたら先生が、君はまだ若いから今からやればわしを超えられる、って言ってくださったんです。それでもう、その先生の一言で、書を真剣にやろうと決心しちゃったんですねえ」
すごいなあ、偉大な人の一声が人生を変えたわけだ。手島先生は康二少年の実力を見抜いていたんですね。10代から毎日書道展に連続8回、20代で書家の登竜門ともいえる毎日書道展毎日賞を2回受賞するなんて、先生の目は確かだった。
「ありがたいですよね」
大学は、東京学芸大学教育学部芸術科(書道専攻・芸術家養成コース)に行ったんですよね。
「卒業してからは、母校の高校の書道の先生になったんですよ」
これがまた、今までの書道の概念をくつがえすような、まず自分の好きな字を好きなように書き、書くことを楽しもうという精神で授業を進めていったら、生徒に大人気。NHKの「にんげんドキュメント」で授業の模様が紹介されたら、世間でも大人気者になっちゃった。
「あらー?って感じでしたよねえ。そのまま高校の先生をやってる雰囲気じゃなくなったので、先生はやめてしまいました(笑)。それと僕の命題でもある、書をアーティストとしてやるためにも先生は捨てなきゃいけないって思ったんです。29歳のときでした」
その前27歳のときに、1回ニューヨークに1年くらい来たことがあったんですって?
「あの頃は、日本での活動に限界がきてしまってたんですねえ」
あーんなにいっぱい賞をもらったのに?
「こんな言い方をしたらいやらしく聞こえるかもしれませんけど、取れる賞を全部取ってみたら、寂しくなっちゃったんです。これからどうしよう、何を目標にしようって。この状況にあぐらをかいたら僕はこれ以上進めませんって言ってるようなものでしょ。上を求めて農耕民族ではなく狩猟民族的に、次の獲物を求めて新しい扉を開いていかないとって。で、アーティストのメッカでもあるニューヨークに行こうと。でもね、ニューヨークに来たら僕のことなんて誰も知らないわけですよ、僕の書はなんぼのもんじゃ、って感じですよね。それでひきこもりみたいにもなったりしたんですよ」
えー、この、ただ今飛ぶ鳥を落とす勢いのまだら金髪男にそんな時代があったなんて・・・
果たして彼はそこからどう脱出したのか、この続きはまた次回。(つづく)
(週刊NY生活 No.150 2007年02月24日号)
※兵藤ゆき氏、およびニューヨーク生活プレス社(
www.info-fresh.com/nyseikatsu)の了承をいただいた上で掲載しております。