プリンストン大学でのパフォーマンス
渡米後一カ月が経った10月頃、「柿沼のパフォーマンスを見てみたい」という意見をたくさんの人から頂戴した。東洋学部長のデイビット・ハウエル教授に相談したところ、ご挨拶代わりに大筆を振るおうかという気になった。気温に左右されやすい墨の性質を考えると、出来るだけ寒くならないうちに開催し、多くの人たちに私の本業を見せ、記憶に焼き付けておきたいと思い始めた。しかし日本と同じことを、ここでやっても意味がない。米国、特にプリンストンにいるからできる最大限のアイデアを捻り出し、私独自のスタイルで何か新たな創造に挑戦してみたかった。
2006年秋、米国で私が生み出そうとした新たな世界観。それは四×五メートルの大きさの、プリンストン大学のバナーを3枚制作するということだった。バナーには光沢のある、大学カラーのオレンジ色の布を使用。大学のマスコット・虎をモチーフに「虎」の象形、行書、草書の3連発、或いは、真ん中にPrinceton Universityの頭文字「P」、両サイドに2種類の虎を書き分けるかの何れか。どちらにするかは当日のその瞬間まで決めないことにした。
パフォーマンスの準備と苦悩
布の大きさの関係で、横二十メートル、縦六メートル、観覧スペースも考えるとそれ以上の大きさの会場が必要になった。しかもライブ性とリアリティーを強調する、天候までを含めた野外でのパフォーマンスに拘った。会場は大学の心臓部の一つ、フリストキャンパスセンター裏の広場に決まった。その後雨天順延を避けるために雨天時の屋内会場も確保した方がよいと思い、東洋学部マネージャーのキャロルに苦労の末確保してもらった。
それを知った友人のブライアンは「そんなに無理しないで最初から室内でやればいいんじゃない」と言った。しかしそれじゃ私の中で何も変わらないのだ。雨天時の会場は押さえたものの、当然雨天を望むわけはない。野外でやる、即ちお天道様の下でやること。雨が降ったらそれはお天道様の涙か怒りか、天と地と人が毎日何千年も繰り広げてきた不思議な営み、アクシデントあってのイベントそして、リアリティーなのだ。私は、一瞬だけ自然を感じ動物に戻りたかったのかもしれない。私は、毎日「雨天の準備はするが、絶対に晴れるよ」と根拠の無い自信を持っていた。
これまで数々のパフォーマンスをこなしてきたが、今回ほど苦労とストレスを伴い、時間を要したものはない。天候の他に、経費、内容、物品調達、演出上不可欠なミュージシャンとのコラボレーションなど、パフォーマンスをするために準備しなければならないことが幾つもあり、英語でのやりとりや、文化の違いに苦しみながらも、それら一つ一つを自分一人の力で解決していかなければならなかった。物品調達も大変だった。文房四宝などの必需品は、普段使い慣れたものを他国で手に入れることは困難なため、輸送代がかかっても空輸した。その他の物品、例えば普通のガムテープでさえ、日本と同じものを現地で探し出すのに苦労し、見つからなければ代用品を必死で探した。一番苦労したのはバナー生地の調達だった。幾つもの生地に試し書きをして選定し、大量の布を自分で注文して取り寄せた。次に仕立て屋に電話し「四×五メートルの布を作り、後で吊るして展示できるよう布の上部に棒を通す輪布を縫いつけてほしい」と説明をすると「できません」と次々に断られた。こちらの依頼が面倒なものだったのか、作り上げる技術がなかったのであろう。アメリカではその辺実にシンプルに「YES」「NO」を言ってくる。諦めずに何軒も問い合わせ、とうとう韓国人のジェイという職人がやってもいいと言った。彼とは何回も打ち合わせをして作業を進めてもらったが、この職人の作業と心遣いは本当に素晴らしかった。望み通りのバナーが縫いあがったのは、布の選定をしてから1ヶ月以上もあと、パフォーマンスの1週間前だった。
そして当日
パフォーマンス当日の十二月九日。晴天ながら摂氏〇度に近い朝を迎えた。墨にとって最適な温度は摂氏約20度強と言われている。水を媒介にし、炭素と膠とブラウン運動を起こし拡散していく上で最も理想的な温度だ。冬のアメリカの風は冷たく厳しいため、墨がそれ自体の性質を失うことを心で心配しながら、スタッフとともに会場の準備を始めた。下敷き代わりの黒のフェルトを広場に敷き詰め、その上にバナー生地を広げて固定した。私もスタッフも初めてのことばかりでどんどん時間が過ぎていく。気がつけばスタッフ全員でシミュレーション一つできてないというのに観客が大勢集まっていた。墨の状態を心配するどころの話ではなくなっていた。「ギャラリーを待たせることはできない、もうやるしかない」と判断し、予定より十分遅れて、ライブパフォーマンスが始まった。
友人の渡辺薫氏(元KODOメンバー)とアシスタント・パーカッショニストのトリヤマ氏が笛や太鼓を演奏する中、ステージの端にバナーとは別のオレンジの布を広げ、「虎」「とら」「トラ」「Tyger」などの文字を書き連ねていった。私のオリジナリティの一つ、トランス書のパフォーマンスだ。書き終わるとステージの下手側に脚立を組み立てて、そこにトランス書の布を巻きつけ、舞台全体を支える「柱」に仕立てた。神妙に特大筆の準備をし、準備ができた途端ステージから走り去った。ランニングは私が制作に臨む前にいつも行う「儀式」だ。走ることで雑念を取り除き、テンションを上げて戦いに臨むのだ。しかし多くの観衆はそんなことなど全く知らない。後で新聞記事を読んだところ、観衆の一人は私が何か忘れ物をしたのか、あるいは恥ずかしくなって逃げ出したのか、とでも思ったようだ。
ランニングを終え、再びステージに戻った。観衆をかき分け、靴を脱いで真ん中のバナーの上に膝をつき、何度も何度も空書した。空を見上げ、地球と、自分を感じた。一礼のあと、筆をしっかりと握りしめ、毛の一本一本に神経を尖らせ、可能な限り墨を含ませた。ずっしりとした筆の重みが腕に伝わってくる。笛と太鼓の音楽がクライマックスを迎えたと同時に、唸り声をあげながらど真ん中に「P」を叩き込んだ。すかさず左側に移り、二発目行書の「虎」の頭の部分に一撃を加えた。空海の筆致を思わせる重厚感のあるハネに続いて、鋭く切れ味のいい最後の斜角を描いた。反対側10m先に位置する三枚目に移動しようとした時、あまりにも重い筆と極度の運動の為、記憶が飛びそうになった。その時「押忍!」と気合を入れる空手の仲間達を思い出した。「押忍」と自分に気合を入れ直し、三枚目に向かって走った。象形文字による「虎」の制作でとどめを刺し、筆を置いた瞬間に地に倒れた。
打ち合わせもほとんどないままスタートしたパフォーマンスであったが、まるで一つの生命体のように呼応しあうスタッフの息吹を背中で感じながら、私はただただ日本人として、文字を言霊にするべく自分自身と徹底的に向き合った。
ほんの五分、その刹那の中で様々な事象が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
他界した母、父、日の丸、命、息・・・。
その中で、ほんの一瞬だけ自由を感じた気がする。
私が本当の私自身をとらえた瞬間だった。
冬の野外イベントにも関わらず、観客数は三百とも四百とも言われた。タイトな準備を想定内とし、必死で付き合ってくれた会場設置、撮影、バケツ持ちなどのスタッフの爽やかな笑顔が忘れられない。イベントの様子は、プリンストン関係新聞二紙のトップ、及び大学HPのトップページを飾り、大学関係者を驚かせた。作品は正月からフリストキャンパスセンターの正面に展示され、今後大学付属美術館に収蔵される動きだ。大成功の代償に私の肋骨にはヒビが入り、一週間寝込んだ。
(日本書法2007年4月号)