スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author : スポンサードリンク| 2017.02.03 Friday | - | -
手に入れた「永遠の刹那」
手に入れた「永遠の刹那」

ティーチャーからアーティストへ
 矢沢永吉も美空ひばりもエルビスも、人に歌の歌い方を教えていない。岡本太郎も「自分には先生もいなければ弟子もいない」とたびたび口にしている。少なくとも私の中では、アーティストとティーチャーは確実に違っていた。大学卒業後、高校の書道教員をしながら創作活動を続けるという自分に違和感を感じ続けていた。ほぼ全ての書家がそうであるように、週末だけ、展覧会場でだけアーティストになるというスタイルであった。
 2001年3月、「真のアーティストはティーチャーではない」と一念発起し、勤務先の公立高校を辞め、右手と作品にのみ依存する「アーティスト」としての生き方を選んだ。「先生型の書家」を卒業したのだ。NHK「にんげんドキュメント」に出演し大きな反響を呼んだことによって、同僚の教師や友人のように交流していた生徒達との間に大きく厚い壁が出来てしまったり、番組上高校の書道教室がフィーチャーされたことから毎日たくさんの問い合わせやファンレターが学校へ来て、授業どころの話ではなくなっりしたことも大きな要因であった。
 教職を去る、それは、言うは易いことだが、普通はなかなか実行に移せないものだ。「収入が全くなくなる」ことを意味するのだから、これからどうしようと思わない訳がない。しかし学校から家に帰ると、適当に食べ物を口に突っ込み、寝る時間を惜しんで毎日朝方まで学書する私を見かねて「後で悔やまぬよう、自分の信じる芸術家の道を進みな」と言ってくれた母親の助言、そして「二束の草鞋は無理」と手島右卿先生に言われ、直ぐに教員を辞め書家一本の道を選んだ父親の背中があってこそできた決断だった。丁度その頃、NHK総合テレビ90分の特別番組「にんげん広場21・いのち」の出演依頼があった。NHK最大スタジオの一辺・横25m幅を使い、4×5mの超大作三連作「生・命・力」を書いて下さいとのことだった。このTVパフォーマンスの為だけに数百万円の特注の大筆を購入した。

特注大筆との出会い
 何かを捨てることは、新たな何かを掴むこと。私の場合、教職を捨てるという決断をしたことと、特注大筆を得たということが同時に起こった。教職を捨て、無頼の浪人書家となった一人の男の真剣勝負の場には常に大筆がいた。その頃から、考え方、仕事、そして人生が大きく変化し始めた。書家という肩書きの他に「パフォーマンス・アーティスト」というもう一つの顔を持つこと、24時間365日、ただただ作品を作るためだけに費やせる生活を営むことは、週末だけ芸術家であった私を「アーティスト・柿沼康二」にせしめた。そして、この大きな筆はメディアや海外活動において私を象徴する上で不可欠な武器となり、私の可能性を大きく高めてくれた。そして今回のアメリカ滞在にも、唯一無二の相棒として共に米国に移り住んできた。
 この相棒は、モンゴルの馬何万頭から数本しか採れない長さ60cmの毛を数万本も使っており、それだけの量の毛を集めるのに数年かかると言われている。また大概の大筆は筆洗いの際、根元に残った墨が腐りの原因となり、直ぐに破損してしまうので、寿命がすこぶる短い。そのことを知る私は、大筆を7つのパーツに分解でき、使用後に筆毛の隅々まで完全に乾燥できる全く新しいスタイルの筆作りを考案した。パフォーマンス時には大抵その筆の組み立て作業から見せることにしているが、その様子はまるで大型機関銃に弾を込めているように物々しい。元の重さが20キロ、毛が良質なためバケツ一杯の濃墨を一発で吸い込んでしまい、パフォーマンス時最初の落筆の瞬間にはその重さがMAX50キロに及ぶ。そして一度使うと筆洗いに4時間かかる。何もかも破格の大物筆なのだ。

人間そのものが露呈するアート・パフォーマンス
 「凄いことをやって欲しい、だけど、安く、汚さず」という主催者側の無理な注文と戦いながら、この大物筆をガンガン振り回し、毎回全く違う内容と設定で7年間に20回以上のパフォーマンスを世界中でこなしてきた。たった数分間で太さ1メートル以上、大きさ5メートル四方にもなる巨大文字を書き上げる行為、筆と取っ組み合いをしながら宙を舞い、地を這い、雄叫びをあげ、やり直しがきかない一回性の世界。その刹那の中で、文字に宿された言霊とそして神と交信し、単なる字に言霊を宿し、上品に、アバンギャルドに、文字を化けさせる。そして精神と体力の限界、自分の弱さ強さと徹底的に対峙(たいじ)する。最後には頭が真っ白になり、事後一時間は朦朧とし無我状態が続く。後先を考えず、己の命を燃焼させることに、その一瞬に全身全霊を懸ける。
 人はアートの狂気の中に自分を照らし、自分と他者との違いを知り、自分が何者かを知る。だからアートは人を魅了するのだ。そしてパフォーマンスとはすなわち身体を媒介とした芸術表現。アーティストがそこで正気を見せても、何の意味もない。上っ面だけで虚飾に満ちた技術は、何の感動も生まない。真剣勝負の際には実生活や鍛錬の中だけで体に沁み込んだものしか出てこない。如何に普段の生活が大切か。狂気をも含んだ人間の営み、生活、人間そのものが如実に露呈する瞬間、それが私にとってのアート、そしてパフォーマンスなのだ。
 武道、サムライ、ROCK、爆発、などと度々紹介される私のアートパフォーマンスは、単なる文字を書いて見せるだけのそれを超えて、書道にかかわりの無い人にまで熱い何かを伝えるようだ。某美術評論家は、私の大作作品を見て「柿沼は脳みそまで筋肉だ」と言った。またTVを見た或ファンは「筆が刀、墨が血しぶきに見えました」と言った。

書のようで書でもなく、絵のようで絵でもない
 過去、海外において「絵画と比較すると、書は直ぐにできてしまうから、価値が低い」と何度もクレームを付けられた経験がある。しかし、今では「柿沼の書は、書でも絵でもない。新しいアートだ。グレートだ」と言われるようになった。書のようで書でもなく、絵のようで絵でもない。一切の迷いと妥協を許さず、計算と洗練の果てに生み出されるその一瞬には私の命が燃焼し爆発する。そこに日本文化全体を理解する上で不可欠な時間感覚と魂が存在するのだ。「永遠の刹那」、米国で「Eternal Nowエターナル・ナウ」と私のアートに対して名付けられた所以だ。
 「永遠の刹那」、それは、「書」のみならず日本文化全てに内在される神秘性、そして奥義であるという確信を得たことが、この一年の大きな収穫であった。この超然とした時間感覚と気合、集中力の中に海外の人たちは、日本人独特の精神や歴史を見るのだ。そして1アーティストとして存在し、1アートとして成立させるために必要とされるのは、それらを自分独自の新たな方法論で表現しなければならないこと。過去の先人達のお手本をゴミ箱に捨てることから始まる。歴史の咀嚼は勿論、それを踏まえた上で、現在、何百何千年の未来をも踏まえた仮説を立て、自分独自のストーリーを作り上げること。その物語にアメリカ人に酔わせること。今回の武者修行で、確実に自分の方向性が見えた。足掛け10年、その間欧米で様々な仕事をし、やっと全ての矛盾が一つなった瞬間の喜びは言葉にするのは難しい。

 帰国しても、相変わらず外国からの仕事が続いている。来年、ワシントンDCの世界的権威のあるケネディーセンターで開催される「JAPAN!Hyper+Culture Festival」に参加する。来年2月が本番なのだが、それに加え9月にマスコミ、スポンサー向けに開催されるプレイベントにて私の一大パフォーマンスを披露することになった。私は、書家というカテゴリーから選出されたのではなく、アーティストとしての参加である。「書家」という肩書きは、今の私、そしてアメリカという地には必要が無くなったようだ。柿沼康二という名の道に大きく刻まれることとなる歴史的祭典。切符は既に手の中にある。
世界行きの切符となるか、その場限りの切符で終わるか、それは全て私の力次第である。

(書道芸術社「日本書法」 2007年9月25日号) 
author : kakiwebmaster| 2007.10.16 Tuesday 10:50 | - | -
ぷりんすとんの風#12
ぷりんすとんの風#12
厳しい環境で芸術学ぶ 可能性広げた単身渡米



 やはり私は芸術が好きなんだ、と改めて感じさせられた一年だった。

好きこそ物の上手なれ。好きな事は疲れない。好きだからどんな困難にも立ち向かえる。しかし、誰に教わるか。どこを見るか。何を良しとするか。何を手本にするかが重要だ。「近くて安くて優しい先生、居心地の良い環境」。そんなぬるま湯からは芸術は学べない。時間をかけてお金をかけて、厳しい指導者や環境の中でおのずから学ぶのである。

 盲目に書道界向けの作品や歴史上の大書家手島右卿、上松一条の物まねをして満足していた十年前の渡米前が「第一期」だとすれば、その後の十年は、その両氏からの解脱を試みてはいたが勇気と才能が足らず脱皮しきれなかった「第二期」だったといえる。その葛藤(かっとう)に無理やりケジメをつけようとした事件が、NHK「トップランナー」への出演と大河ドラマ「風林火山」の題字制作だった。この二つの活動で己に句読点を打ち、第二期をぶち壊すため再び単身米国に乗り込むことにした。

 そのころ、日本のスピード社会に完全に飲み込まれてしまっていた私は、立ち止まって考えることができなくなっていた。日本的なふるいに残ったものにのみ対応し、そのシステムにうまく順応できるよう、日本的お利口さんになるべく動き、話し、働き、作品を作っていたのかもしれない。完全に行き詰まった私には、じっくり考える時間、異なった角度から物事を見ることが必要だったのだ。

 今回の単身渡米は、十年前よりはるかに辛かった。四捨五入すると四十の男が一年間武者修行に行くのは、二十代のそれとはまったく意味が違う。それこそ命懸けの大勝負であった。

 日本のふるいの他に米国的なふるいを持つようになって、これまで必要ない、無意味と思い込んでいた物事が私の中で蘇生(そせい)し、突然動き始めた。これまでバラバラに見えていたものが一つに見え始めた。自分の可能性が広がり、何より生きることが楽しくなった。既に「第三期柿沼康二」の世界はスタートしている。そう、アメリカという地に足を着けた瞬間から始まっていたのだ。

 米国での次なる仕事は、ワシントンDCのケネディセンターで開催される大規模イベントでのパフォーマンスだ。二五メートル×六メートルの超巨大作品「風林火山」を米国の心臓部で大爆発させる。自身最大最高の「Eternal Now〜永遠の刹那(せつな)」で大きな勝負に出る。
(終わり)

(下野新聞2007年9月18日文化欄)
author : kakiwebmaster| 2007.10.01 Monday 11:44 | - | -
ぷりんすとんの風#11
ぷりんすとんの風#11
余裕感 多く教わる / 驚異的個の力 統括するNY



「一年間かけて、アメリカを臨書(歴史上の名筆を手本とし模倣する書の基本けいこ)してきた」という思いがある。十年前、少しは分かったつもりの米国であったが、この国の考え方や印象が今回の米国生活でことごとく変化した。日本の常識は米国の非常識、その逆も然り。異国にいるとそんなことをしばしば感じさせられる。
 日本はほぼ単一民族国家だから、人々は「これが常識」「普通は・・・」などという、ある一定の価値観で左右される傾向が強い。しかし文化や思想、扱う言葉の違う多種の人間が入り交じる米国では「みんな違っていて良い」という個性を尊重する姿勢が基本となって、コミュニケーションやネゴシエーションの能力が発達してきた。思うことはきちんと言わないと理解されない、契約主義なところはあるが、その一方できちんと説明すれば理解してもらえる国でもある。
 「この国は、組織ではなく、その人『個人』を強く評価しますよ。日本語がうまく話せるから日本でオーケーじゃないように、この国も英語が流ちょうに話せるから全て良いのではなく、あなたの積極性と誠意、日本人としての『優しさ』が大切なんです」。米国生活が長い友人のアドバイスである。
 米国、特にニューヨーク(NY)のアートシーンは「NEW」を重んじる。歴史の浅い国だから新しいコンセプト、新しいアーティストを求めると言ってしまえば、この街は既に過去の産物になっていただろう。しかし人種のるつぼであるこの街には、おのずと世界中の脳みそ、成り上がり、生命力、未来の常識となる異端な精神が集い、驚異的な個の力、それらを認知し統括する底力がこの街にあるからこそ、常に世界の中心、世界の先端を維持し続けているのだ。そんな土壌とにおいに導かれ、世界の頂点を目指すすべてのアーティストはNYにたどりつく。
 二度目のNY活動は、自分が知っていた街であったはずの街NYを新たに彩った。平和ボケした日本ではほぼ死語と化した「努力根性論」や、タフさ、知性、ONとOFFの切り替えが、この街で認められ生き抜くためには重要だと実感した。またONのときもOFFのときも、日本とは異なる緩やかな時間の流れを感じた。「そんなに詰め込んだらいざと言う時に力が出せないから、やりたくないことは断ってプライベートを確保してね」など、日本社会ではありえない余裕感を多く教わった。

(下野新聞2007年8月21日文化欄)
author : kakiwebmaster| 2007.09.04 Tuesday 16:21 | - | -
新生・柿沼康二の誕生
新生・柿沼康二の誕生

 渡米後、日本とアメリカのみならず、ロンドンやシンガポール、韓国などからいろいろな仕事のオファーが殺到し、すっかり家に引きこもってPCの前で事務作業や業務連絡に明け暮れるようになった。これまでのステイタスも人間関係もしがらみも全て日本に置いて、たった一人でここへ来ると自分で選んだのだから仕方がない。週一回NYに出かけたり、空手の稽古やランニングをしたり、食が合わないことから男料理を覚え始めたり、数は少ないながらもプリンストンでできた仲間達と食事やビールを楽しんだりなど、日本にいたときと全く異なる生活を送りながら、自分の精神を上手くコントロールし、アウェーでの一人暮らしとアーティスト業を進めていた。その中で、日本では思い浮かばなかったであろう発想を幾つも得ることができた。


柿沼式四曲屏風・コルトレーン1号
 3月2日、アメリカ五大美術館の1つフィラデルフィア美術館でのパフォーマンスが予定されていた。事前に美術館と打ち合わせをしたところ、美術館の規則によりパフォーマンス会場となるメインエントランスには作品展示用のパーテーションを取り付けられないこと、フローリングを全体に汚してはならないことなどの要請があった。その制約を考慮して2,3日考えたところ、四曲屏風を利用する表現を思いついた。しかし日本から屏風を輸入するのは経費がかかり過ぎる。「それならいっそのこと、作っちゃえ!」という考えに至り、ホーム・デポ(ホームセンター)で材料を物色すること3回、とうとうアメリカ生まれの柿沼式四曲屏風を作ってしまった。全くもってアーティストスピリッツのなせる業と発想であった。物が氾濫しすぎる日本にいたら、こんな発想には絶対にならなかったであろう。その屏風には「コルトレーン1号」と命名した。
 パフォーマンスの第一部では、屏風を寝かせて万葉集の四季の歌を揮毫した後に屏風を立てて展示した。そして続く第二部では屏風を立てた状態で、表に古典的表現で「風花雪月」、裏に返してその裏側に朱墨のトランスワークス(同じ文字を書き連ねる私の十八番)でアブストラクトな前衛表現を演出した。その試みは大成功だった。これまで壁などに重力を敵にしながら揮毫するパフォーマンスは、日本のTV局から依頼されても絶対に首を縦に振らなかったのに、今回は何の抵抗も無かった。視聴者への迎合やその場しのぎのパーテーションではなく、日本の家屋と寸尺という感覚から生まれた「屏風」という形式のキャンバスが、特殊な力を与えたとしか言いようがない。この発明品が、以後私のアメリカ展開において欠かせない相棒となり、行く先々で大活躍した。

リーハイ大学・滞在アーティスト招聘
 4月下旬にはリーハイ大学より一週間、滞在アーティストとして招聘された。これは2005年秋に渡米した際、リーハイ大学関係者のエレン・ビアンさんとお会いしたご縁によるものだった。リーハイ大学はエンジニアリング文門では米国トップクラスの名門大学だが、人文やアートに対する生徒の関心が低いということから、数年前に大学の直轄で「アーツ・リーハイ」という機関が作られ、科学と人文・芸術が共存する環境を作りだそうと様々なアーティストを招きイベントを組んでいる。今回の私のような大規模招聘は大学初らしく、それだけに関係者の気合も心配りも一様ではなかった。内容も、月曜にレセプション、火曜に地元高校生とリーハイ大学生を対象に2つのワークショップ、水曜に大学シアターでパフォーマンス、木曜に屋外ワークショップ、金曜に超大作パフォーマンスと、5日連続で異なるプログラムが毎日組まれる前代未聞の荒仕事となった。
 プログラム初日、マディソンから応援に駆けつけてくれた親友のイーサンとともにレセプションに参加した。私が着て行ったオーバーオールには「HE IS USELESS(彼は(私は)駄目人間)」の文字。そしてイースンはアーミーファッション。ベスレヘムの住民や大学生には、この日米凸凹コンビはかなり異質な二人に見えたようだ。彼らは胡散臭そうに私達を眺めていた。

KAKINUMAアート×音楽=ウルトラ前衛ライブパフォーマンス
 水曜日のライブパフォーマンス「TRANSWORKS(トランスワークス)」において、元来「言葉」による説明を信じていない私は、何とか言葉を解さず、日本人にもアメリカ人にも対応し、飽きがこない時間でダイジェスト的に書の啓蒙的なパフォーマンスができないものかと模索し続けた。また前衛だけでは書の伝統性が薄れ、古典色を丁寧に説明しようとすると退屈なものに終わる、そのバランスも大事なポイントだった。
 当初ミュージシャンとのコラボを検討していたが、友人の彼女から「コラボは時々にした方がいいですよ。この国ではソロでやった方が評価されやすいですから…」というアドバイスを受けてふと考えた。音楽好きという趣味感覚を完全に超越するほど、私の仕事に音楽は欠かせない。その音楽とKAKINUMAアートとの関連性を打ち出そうと考えたのだ。そこで閃いたのがipodの使用だった。日本ではまったく興味を抱かなかったipodを友人の勧めで購入したところすっかりipodフェチとなった私は、ipod音源をワイアレスでシアターのスピーカーに飛ばすというアイデアを思いついたのだ。作品を制作しながらその内容に合ったテーマ音楽を手元のipodで選ぶと、自分自身と観客共に聴こえるという仕掛けだ。ipodから流す音楽は最初から決め込まず、自分のアトリエで普段やっているように、雰囲気によってその場その場で決めることにした。U2、マッシブアタック、布袋さん、ケミカルブラザーズ、美空ひばり、バッハ、マイルス YMO、ツェッペリン、ブラックサバス、ピストルズ、そして永ちゃん・・・日米のロック、クラッシック、ジャズ、演歌、ドラムンベース、テクノとジャンルやカテゴリーを破壊するような私のいつもの選曲で空間を彩った。結果、観客をシアターという私の脳内に潜入させ、伝統書と前衛アートが入り混じる思考を音楽とともに見せるというコンセプチュアルなライブとなった。コルトレーン1号はここで六曲屏風のコルトレーン2号へとバージョンアップし、床の上で制作した作品を飾るパーテーションに、トランスワークのキャンバスにと、またもや大活躍した。さらにブラックライトや大画面モニターによる演出効果もあって、「書道」とか「日本」とかというカテゴリーを余裕で吹っ飛ばすような斬新極まりないウルトラ前衛パフォーマンスが実現した。パフォーマンス終了後、観客は総立ちとなった。きっと彼らは、「書」とか「日本人」とか一定の型にはまった見方をせず、私を、そしてパフォーマンス自体をストレートに感じてくれたのだろうと思う。

アーティストKoji Kakinuma始動
 最終日の野外超大作パフォーマンス「The Eternal Now(永遠の刹那)」。パフォーマンスの開始を告げるアフリカ太鼓の鮮烈なビートが天空に木霊したとき、私はすでに成功を確信していた。「無駄は無駄じゃない」ということを改めて感じ入るくらいに緊張と余裕の双方を楽しんでいた。「いろいろあったがアメリカの最後の大きな一撃だな!母ちゃん、天国から良く見とけよ!」と天を睨み、神を引き寄せ交信し、一緒にダンスを踊った。掛け声と共に地球の核目がけて強烈な一撃を食らわせた。後は覚えていない。三秒間だけ自分が自分、動物柿沼康二になった。「南山」−Lehigh(リーハイ)と名付けられた真意を、純白の布地に漢字二文字で焼き付けた。
 全てのプログラムが終わったとき、私を胡散臭そうに眺めていたはずの、学生達の態度がすっかり変わっていた。学内のどこに行っても人々に声をかけられ、”Koji, You’re Great!(康二、あなたは素晴らしい!)”と絶賛された。彼らからの大きなレスペクトを肌で感じ、私はリーハイでの成功をつくづく実感した。今回のアメリカ武者修行において、苦しみのた打ち回りながらも、アーティストとしてのプライドをかけて、言葉や文化や性別を超え、いくつもの型や壁をぶち壊してきた。そしてリーハイの一連の活動で、自分自身の限界を超え、心から楽しんだ。私はアーティスト・Koji Kakinumaとして、間違いなく生まれ変わった。日本人はダサい、書は古いなどと他者から言われることを嘆くのではなく、「俺のアートは新しくクールだよ」と自信を持って言える自分に大きく近づいた。


(日本書法2007年7月号)
author : kakiwebmaster| 2007.07.24 Tuesday 23:43 | - | -
ぷりんすとんの風#10
ぷりんすとんの風#10
米の親友をスタッフに 心身両面で活動支えられ



「今回のリーハイ大学活動の最大の采配は、スタッフとしてイースンをマジソンから呼んだことですね」。友人のSさんから言われた言葉だ。

イースン・フェスベンダーとの出会いは十年前に遡る。「書はアートたるか、自分はアーティストたるか」という命題に真っ向から向かい合う為に単身NYへ渡った際、初めてできたアメリカ人の友人だった。それ以来の付き合いで、親友という言葉が本当に当てはまる関係といえる。見た目形はアメリカ人だが、心は「モアザン日本人」で、言葉を超え人の心理を読み解く鋭いサイキックな感覚を持つ。そして彼はこれまでに数々の重要なコメントをくれた。

NYでぐれていた頃、「お前はここに何しに来たんだ?英語や芸術の理論を学んでいる場合じゃない。アーティストとして動くんだ!」と彼は私を一喝し、小さいながらも人生初の個展をNYで開催する勇気を与えてくれた。またTBSの番組「情熱大陸」のシカゴ収録では私のアシスタントを務め、招聘した大学の講師と私が衝突してこの上ない屈辱を受けた際に「コウジ!おまえがもしピカソやマチス、ポロックみたいになりたいなら、こんなことでめげてはいけない。コウジ!スマイル!笑いながら最高のパフォーマンスを見せ付けてやれ」と言った彼の言葉が未だ忘れられない。

彼はNYで俳優を目指し八年生活した後、父の看病のために故郷のマジソンに戻っていた。今回のリーハイ大学での活動に際し彼にアシスタントをお願いしたところ快諾、仕事を休んでマジソンから応援に来てくれた。

超大作パフォーマンス前日、私は一日前に負傷した右膝が痛み出し、悪化しないかと神経質になっていた。イースンは何も言わなくても分かるようで、私をジムに連れ出し、専属トレーナーのように膝のリハビリに付き合ってくれた。そのお陰で翌日の朝、前日には動かなかった右膝がほぼ全快していた。

超大筆パフォーマンスを無事終えて会場に戻ると、イースンが申し訳なさそうな顔で「コウジ、ダイジョウブ?デモ、タイセツ!タイセツ!ワカル?」と言いながら、足を患った車椅子のお母さんと落ち込んだ様子の娘さんを私に紹介した。

そのお母さんは「娘にあなたのパフォーマンスを見せてあげたかったのに、私の足のせいで間に合わなかった」と泣いていた。私は再度見せてあげられないせめてものお詫びにと、お母さんの差し出したメモ帳いっぱいに「空」という文字を沢山書き、サインして、握手をした。涙ぐんでいた親子に微笑が浮かんだ。

それを傍で見ていたイースンは「コウジ、お前がどんなに世界で有名になってもこのことを絶対に忘れてはならないよ。俺は本当に今回お前の手伝いができてよかった」と涙目で私に言った。

(下野新聞2007年7月17日)
author : kakiwebmaster| 2007.07.23 Monday 17:27 | - | -
ぷりんすとんの風#9
ぷりんすとんの風#9
屏風に「永遠の刹那」 制作過程パフォーマンス化



4月下旬、リーハイ大学にて一週間アーティスト特別招聘があった。リーハイ大はエンジニアリング文門米国トップ級の名門大学だが、人文やアートに対する生徒の関心が低いということから、科学と人文、芸術が共存する環境を作りだそうという企画だった。レセプション、高校生及び大学生向けの授業、実験型ワークショップ、シアターでのソロライブパフォーマンス、超大作パフォーマンス、懇親会と、5日間で連日違ったプログラムが繰り広げられるという荒業となった。

今回の見ものは、大学シアターでの90分のライブパフォーマンスだった。地元矢板スタジオで営まれている制作プロセスをパフォーマンス化してしまおうと試みた。90分を前後半に分け、伝統書の揮毫から始まり、「書」という枠を超越した「柿沼アート」が出来上がるまでを披露、観客が私の脳内に潜入するような錯覚を起こさせ、唯一無二の私独自の世界観を打ち出そうとしたのだ。

私と共に私の脳内に潜伏した観客は、アトリエ内で神と戯れダンスする私から生み出される、線と点が様々な文字を形成されていくプロセスを見る。言葉や文字を化けさせ、活字では到底包括しきれない3500年の文字の歴史と「永遠の刹那」を目撃する。

私の手元では「ipod」がプレイ、スキップ、ストップ、リターンと即興的に操作され、世界中のロック、クラッシック、ジャズ、演歌、ドラムンベース、テクノなどの音楽がワイアレスでシアターのスピーカーに飛ばされ、シアターに木霊した。作品の制作コンセプトに合わせたジャンル破壊的な音楽構成は、私の作品と音楽との深い関連性を示すものだ。

何とか言葉を介さず、日本人のみならず海外の人にも対応し、飽きが来ない状態と時間で、総合的な書の、そしてアートのライブパフォーマンスができないものかとしぶとく模索し続けてきた私の命題の解は、不思議とこの地アメリカで自然に導き出された。

そして大活躍の柿沼式四曲屏風は六曲屏風へとバージョンアップし、巨大モニターやブラックライトなども使用することで、、大学のシアターは柿沼の完全演出による柿沼アートと化した。

観客からは盛大なスタンディングオベーションを頂いた。私が発した言葉は「サンキューリーハイ!」その一言だけだった。それ以外は、何も要らないと思った。


(下野新聞2007年6月19日)
author : kakiwebmaster| 2007.07.23 Monday 00:40 | - | -
兵藤ゆきのおじゃましま〜ッす! 上品なアバンギャルド!(下)
兵藤ゆきのおじゃましま〜ッす!
上品なアバンギャルド!(下) 書家・アーティスト 柿沼 康二さん


 書家・アーティストの柿沼康二氏、去年の9月からプリンストン大学客員書家(特別研究員)として、ニュージャージー州プリンストンに暮らしている。今年のNHK大河ドラマの題字「風林火山」など、彼の作品はただいま注目の的。しかしそんな彼にも、人知れず壁にぶち当たり悩んだ時期もあったとか。

1997年、彼が27歳のとき新しい扉を開こうとアーティストのメッカ、ここニューヨーク(NY)にやって来た彼ではあったが、自分の存在の希薄さに愕然とし、しばしひきこもりに・・・・ で、どうやって、そこから脱出したんです? 

「実は、初めの3か月ほどは語学学校に行きながらアーティストである自分をとぼけていたんです。そしたら、語学学校のアメリカ人やフランス人の友だちが、カキはアーティストなのになんでアーティストとしての活動をしないんだ、って言うんです。それでやる気になって、自分の作品を持っていろんなギャラリーに売り込みにいったんですよ。
 そしたらすぐにMoMAの近くのギャラリーで、ぼくの展覧会をやってくれるという話になったんですけど、準備を進めていって最後の最後に、金銭的な折り合いが付かなくてだめになっちゃったんです。
 そこからもう、6、7か月は対人恐怖症、ひきこもりですよ。でもね、1年間って決めて来たわけで、もうそんなに時間がないとなったときに、このまま何も足跡を残さないというか、マーキングしないで帰るのもしゃくにさわる、って思えたんですね。そこからは精力的に動きましたよ。ソーホーのギャラリーに売り込みに行ったりね、でも英語もろくにしゃべれない日本人がなんなんだって態度をとられたり、そりゃあへこみそうになったりくじけそうにもなりましたけど、やっぱり敗北者として帰るのがいやだったんです。
 そうこうしているうちに、やっとアッーパーイーストにある日系のアートスペースで展覧会をやってくれることになりまして」

 よかったですねえーーーーー、

 「バカ売れはしなかったですけどね(笑)。でも、知らないアメリカ人のおばさんとか、日本人のおじさんとか、買ってくれましたよ」 それからは、毎年NYというか、アメリカへ? 「シカゴのギャラリーのグループ展に参加したり、ぼくが実際作品を書いているところを見たいっていうんで、メトロポリタン美術館でパフォーマンスをしたりとか、なんだかんだと年1、2回は来てますね」

 で、今回は約1年間の長期滞在と、プリンストン大学が受け入れてくださるもんねえ、

 「ありがたいですよねえ。それに丁度いい時期だったんです。また日本での活動に限界を感じて、27歳のときのように36歳も危ないなって思ってたときだったんでね。あのね、去年の9月にプリンストン大学に行ったときに、大学の人に、お前、いい奴だなあってほめられたんですよ」

 え、なんで?

 「プリンストン大学のマスコットがトラなんです。ぼくの髪の毛、トラヘアーでしょ」

 あー、まだら金髪男じゃなくて、トラ男ね、

 「(笑)そんなつもりじゃなかったんですけど、この髪でよかったかなって」

 バッチリでしたね。で、今回のNY生活で、アーティストとしての危機感からは脱しましたか?

 「なんかね、のどに詰まっていたものが5つくらい落ちたって感じですよ」

 それは、よござんした。

 さて、今後のカッキーが、っていつの間にかカッキーになってますが、目指すところはどこでしょう、

 「ぼくの書く字を、書を超越したニューアートの作品として認めてもらい、グッケンハイム、MoMA、メトロポリタン美術館に収蔵してもらう、これに尽きますっ!」

 おっ、語尾の強さに思いの強さがびんびん伝わってきます。 柿沼康二36歳、アーティストとしての戦いはまだまだ続くのであった。フレー、フレー、カッキー!

(週刊NY生活 No.154 2007年03月24日号)

※兵藤ゆき氏、およびニューヨーク生活プレス社(www.info-fresh.com/nyseikatsu)の了承をいただいた上で掲載しております。


author : kakiwebmaster| 2007.05.29 Tuesday 01:21 | - | -
兵藤ゆきのおじゃましま〜ッす! 上品なアバンギャルド!(上)
兵藤ゆきのおじゃましま〜ッす!
上品なアバンギャルド!(上) 書家・アーティスト 柿沼 康二さん


 マンハッタンのペン・ステーションからトレントン行きの電車に乗って1時間ほどでプリンストンに着いた。駅で書家の柿沼康二さんと待ち合わせなのだ。
 今年のNHK大河ドラマの題字「風林火山」や、オープニングで次々に現れる書の作品群で彼の名はいっきに日本全国に知れ渡ったが、去年の9月からプリンストン大学客員書家(特別研究員)として現在彼はここで暮らしているのだ。

 おっ、いたいた、まだら金髪の男こそ、まさしく柿沼康二氏だ。訪ねた日は大雪で、電車は10分ほど遅れたが、待っててくれたのね。こんにちわー、
 「いやいや、えらい日になっちゃいましたが、よくいらっしゃいました。ほんとはここから2両編成のチンチン電車に乗ってプリンストン大学まで行けるんですけど、あいにくの天候で運行してないのでタクシーで行きましょう」

 はい、了解でーす。

 柿沼さんは、1970年、栃木県矢板市に生まれた。父親の同じく書家、柿沼翠流さんのすすめで、5歳から書道を始めたが、子どもの頃はサッカー大好き少年でJリーガーに憧れていたり、音楽好きでロックバンドを組んでいたりして、書はさほど真剣には取り組んでいなかったのだそうだ。

 「そうなんですよね。でも、高校1年生のときに父が、父の師でもあり昭和の三筆といわれた手島右卿先生(1901年 〜 1987年)のところに僕を連れて行ってくれたんです。先生は僕をそばに座らせ、僕が書いた書を丁寧に全部添削してくださったんです。その間、緊張と感動のあまり僕の体はがたがた震えていました。そしたら先生が、君はまだ若いから今からやればわしを超えられる、って言ってくださったんです。それでもう、その先生の一言で、書を真剣にやろうと決心しちゃったんですねえ」

 すごいなあ、偉大な人の一声が人生を変えたわけだ。手島先生は康二少年の実力を見抜いていたんですね。10代から毎日書道展に連続8回、20代で書家の登竜門ともいえる毎日書道展毎日賞を2回受賞するなんて、先生の目は確かだった。

 「ありがたいですよね」

 大学は、東京学芸大学教育学部芸術科(書道専攻・芸術家養成コース)に行ったんですよね。

 「卒業してからは、母校の高校の書道の先生になったんですよ」

 これがまた、今までの書道の概念をくつがえすような、まず自分の好きな字を好きなように書き、書くことを楽しもうという精神で授業を進めていったら、生徒に大人気。NHKの「にんげんドキュメント」で授業の模様が紹介されたら、世間でも大人気者になっちゃった。

 「あらー?って感じでしたよねえ。そのまま高校の先生をやってる雰囲気じゃなくなったので、先生はやめてしまいました(笑)。それと僕の命題でもある、書をアーティストとしてやるためにも先生は捨てなきゃいけないって思ったんです。29歳のときでした」

 その前27歳のときに、1回ニューヨークに1年くらい来たことがあったんですって?

 「あの頃は、日本での活動に限界がきてしまってたんですねえ」

 あーんなにいっぱい賞をもらったのに?

 「こんな言い方をしたらいやらしく聞こえるかもしれませんけど、取れる賞を全部取ってみたら、寂しくなっちゃったんです。これからどうしよう、何を目標にしようって。この状況にあぐらをかいたら僕はこれ以上進めませんって言ってるようなものでしょ。上を求めて農耕民族ではなく狩猟民族的に、次の獲物を求めて新しい扉を開いていかないとって。で、アーティストのメッカでもあるニューヨークに行こうと。でもね、ニューヨークに来たら僕のことなんて誰も知らないわけですよ、僕の書はなんぼのもんじゃ、って感じですよね。それでひきこもりみたいにもなったりしたんですよ」

 えー、この、ただ今飛ぶ鳥を落とす勢いのまだら金髪男にそんな時代があったなんて・・・

 果たして彼はそこからどう脱出したのか、この続きはまた次回。(つづく)

(週刊NY生活 No.150 2007年02月24日号)
※兵藤ゆき氏、およびニューヨーク生活プレス社(www.info-fresh.com/nyseikatsu)の了承をいただいた上で掲載しております。
author : kakiwebmaster| 2007.05.29 Tuesday 01:15 | - | -
ぷりんすとんの風#8
ぷりんすとんの風#8
オフにメジャーリーグ観戦 国と文化の違いまざまざ


アメリカの長く厳しい冬が去ったようだ。つい先日まで灰色の冬景色だったのが、ほんの二週間でまぶしいほどの新緑でいっぱいになった。
フィラデルフィア美術館、国連国際学校、ペンシルベニア州リーハイ大学での大規模イベントと、三月上旬から四月下旬まで、びっしり予定されていた大仕事を無事終了させ、今期渡米後初めて心の底からオフを感じる事ができた。

五月五日の土曜日。私はヤンキースタジアムにいた。昨年八月、渡米翌日に観戦したヤンキース戦に続き、二度目のメジャーリーグ観戦だ。今回の相手はシアトルマリナーズ、イチロー対松井という好カードだった。

スタジアムに近づくほどに、帽子やシャツにヤンキースのロゴをつけたアグレッシブな人間が増えてくる。これは日本のお祭りにおける法被、永ちゃんのライブのタオル同様、ある一定の運命共同体としてのサインと象徴である。

日本の場合、ホームゲームであっても多かれ少なかれ相手チームのファンが球場に入り混じるものだが、今日は客席のほとんどが熱狂的なヤンキースファンで埋め尽くされていた。マリナースの帽子やシャツを着ていたり応援したりすると大変な事になりかねない。

試合開始直前に国歌が流れ始めると老若男女、売店のおばちゃんまで球場にいるすべての人が、帽子を取り胸に手を当てて斉唱を始める。これだけの多民族国家において、これだけイデオロギーを共有する国旗と国歌の底力には、毎回鳥肌の立つ思いがする。そんな国のナンバーワンスポーツであるメジャーリーグで堂々とプレーしている松井やイチロー、城島を見ると、日本人としての誇りを感じると共に、自分の小ささを嫌というほど思い知らされる。

ピーナツ売りのオヤジはヤンキースタジアム名物の一つ。「ピーナツ!」と客が叫ぶと何十メートルも先から客目がけて相当の球威とコントロールでピーナツ袋を投げつける。客はピタッと受け取り、五ドル紙幣を出し、まったく関係のない周りの観客を経由してピーナツオヤジまで、リレーを繰り返してお金を渡すのだ。

入手困難な最高席のチケットを取って私を誘ってくれた友人が言った。「私は、野球を見に来ているんじゃないんです。フィリーチーズステーキを食べビールを飲む。ピーナツを投げてもらい七、八回あたりに居眠りをする。この開放感と雰囲気を楽しむのが好きなんです」

パーフェクトゲームを展開していたチェン・ミン・ウォン投手が八回にホームランを打たれた後、スタンディングオベーションが起こった。それは、チェン投手の力投を労い「大丈夫大丈夫、気にするな」という意味であった。国と文化の違いをまざまざと感じさせられた瞬間だった。

(下野新聞2007年5月15日)
author : kakiwebmaster| 2007.05.24 Thursday 12:30 | - | -
ぷりんすとんの風#7
ぷりんすとんの風#7
ぶれ続けてこその表現者 / ひたすら「自分らしく・・・」と



 昨年末のプリンストン大学でのパフォーマンス終了後、墨を含むと五十キロに及ぶ筆を振り回すという極度の運動から肋骨が折れ、苦しみの中観客の残る会場を去った。人間の、そして日本人の魂の限界から生み出される生命力が私の作品の核である。そんな命がけのパフォーマンスの後には満面の笑みで”Thank you very much for coming!”と言う余力など残っている筈がない。しかしパフォーマンスの後、「最後に挨拶くらいした方がよかったのではないか」という観客の意見を聞いた。こちらに長く住む日本人だった。それは私の美観から遠ざかることを示唆する。人間から動物に回帰し、神と交信する。天と自然の一部と化した私がその祈りの直後、常態に戻り理性的な言動をとるのは無理に近い。作品が悪いとかならまだしも、「挨拶」があるかないかはゴールではない。

 「それができなければ真のアーティストではない」「見栄を張ってナンボの国、アメリカでは通用しない」などと言うのであれば、歴史上のアーティスト、ガンズやストーンズはどうだったのか。『普通』ではなかったはずだ。高校生の時に、来日したガンズのライブを見に行き、4曲歌って「ノリが悪いから今日はやめた」と言って会場から姿を消したガンズに心から感動してしまったのは私だけではなかった筈だ。

 始めは世の多数派からの誤解と中傷の的に違いなかった歴史上のアーティスト達。しかし彼らはそれにめげず常識と対峙し、世に二人といない自分だけの世界を真っ直ぐに貫き続け、遂には世をひざまずかせた。勇気と狂気、破壊と創造を繰り返し、一生をかけ、唯一無二の存在と表現で自分の名前の道を作り出した。

 今回の長期渡米は、「ぶれる」為と言っても過言ではない。人に教えて生計を立てる教員型徒弟制型書家しか存在しない書道業界に疑問を感じ、音楽や映画、ファインアートなどの一流の哲学を参考にしながら、六年かけて前人未踏のアーティスト型書家のスタイルを日本で確立した。そしていつしか何の矛盾も障害も無くなっていた。新しさを感じなくなってしまうのは、アーティストにとっての一番の危機。アーティストは常にぶれ続けることが必要なのだ。

 大河ドラマの題字を手がけ、これまで通りに日本にいれば更なる飛躍が期待されるこのタイミングに、私は現状維持を選ばずアメリカでの武者修行の道を選んだ。「普通」ではないだろう。

 今の私は、日本とアメリカの狭間でぶれまくっている。アメリカで日々障害や、言葉と文化の壁や、不調和音を感じながら、ただただ「自分らしく尖れ」「鏡は見るな」と心の中で叫んでいる。

(下野新聞2007年4月17日)
author : kakiwebmaster| 2007.05.24 Thursday 12:26 | - | -
柿沼康二
書家、アーティスト
Koji Kakinuma (c)Douglas Benedict
(c)Douglas Benedict
書家/アーティスト・柿沼康二の芸術観、書道について、アーティスト論、過去の日記などを集めたエッセー集。

柿沼康二(カキヌマコウジ)。書家・書道家・現代美術家。 1970年栃木県矢板市生まれ。5歳より筆を持ち、柿沼翠流(父)、手島右卿(昭和の三筆)、上松一條に師事。東京学芸大学教育学部芸術科(書道)卒業。2006-2007年、米国プリンストン大学客員書家を務める。 「書はアートたるか、己はアーティストたるか」の命題に挑戦し続け、伝統的な書の技術と前衛的な精神による独自のスタイルは、「書を現代アートまで昇華させた」と国内外で高い評価を得る。2013年、現代美術館において存命書家史上初の快挙となる個展を金沢21世紀美術館にて開催。2012年春の東久邇宮文化褒賞、第1回矢板市市民栄誉賞、第4回手島右卿賞。独立書展特選、独立書人団50周年記念賞(大作賞)、毎日書道展毎日賞(2回)等受賞歴多数。NHK大河ドラマ「風林火山」(2007)、北野武監督映画「アキレスと亀」、角川映画「最後の忠臣蔵」等の題字の他、「九州大学」「九州大学病院」名盤用作品等を揮毫。 NHK「トップランナー」「趣味Do楽 柿沼康二 オレ流 書の冒険」「ようこそ先輩課外授業」「スタジオパークからこんにちは(2回)、MBS「情熱大陸」、日テレ「心ゆさぶれ! 先輩ROCK YOU」、BOSE社TV-CM等に出演。 伝統書から特大筆によるダイナミックな超大作、トランスワークと称される新表現まで、そのパフォーマンス性は幅広く、これまでNYメトロポリタン美術館、ワシントンDCケネディセンター、フィラデルフィア美術館、ロンドン・カウンティーホール、KODO(鼓童)アースセレブレーションなど世界各地で披露され好評を博す。現在、柿沼事務所代表取締役社長兼所属書家。


=TOPICS=
柿沼康二の作品をまとめた初の本格作品集「柿沼康二 書」東洋経済新報社より好評発売中です。
→詳細を読む
=WEB SITE=
=BLOG=
=SHOP=
=COMPANY=


SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
モバイル
qrcode
LINKS