手に入れた「永遠の刹那」
ティーチャーからアーティストへ
矢沢永吉も美空ひばりもエルビスも、人に歌の歌い方を教えていない。岡本太郎も「自分には先生もいなければ弟子もいない」とたびたび口にしている。少なくとも私の中では、アーティストとティーチャーは確実に違っていた。大学卒業後、高校の書道教員をしながら創作活動を続けるという自分に違和感を感じ続けていた。ほぼ全ての書家がそうであるように、週末だけ、展覧会場でだけアーティストになるというスタイルであった。
2001年3月、「真のアーティストはティーチャーではない」と一念発起し、勤務先の公立高校を辞め、右手と作品にのみ依存する「アーティスト」としての生き方を選んだ。「先生型の書家」を卒業したのだ。NHK「にんげんドキュメント」に出演し大きな反響を呼んだことによって、同僚の教師や友人のように交流していた生徒達との間に大きく厚い壁が出来てしまったり、番組上高校の書道教室がフィーチャーされたことから毎日たくさんの問い合わせやファンレターが学校へ来て、授業どころの話ではなくなっりしたことも大きな要因であった。
教職を去る、それは、言うは易いことだが、普通はなかなか実行に移せないものだ。「収入が全くなくなる」ことを意味するのだから、これからどうしようと思わない訳がない。しかし学校から家に帰ると、適当に食べ物を口に突っ込み、寝る時間を惜しんで毎日朝方まで学書する私を見かねて「後で悔やまぬよう、自分の信じる芸術家の道を進みな」と言ってくれた母親の助言、そして「二束の草鞋は無理」と手島右卿先生に言われ、直ぐに教員を辞め書家一本の道を選んだ父親の背中があってこそできた決断だった。丁度その頃、NHK総合テレビ90分の特別番組「にんげん広場21・いのち」の出演依頼があった。NHK最大スタジオの一辺・横25m幅を使い、4×5mの超大作三連作「生・命・力」を書いて下さいとのことだった。このTVパフォーマンスの為だけに数百万円の特注の大筆を購入した。
特注大筆との出会い
何かを捨てることは、新たな何かを掴むこと。私の場合、教職を捨てるという決断をしたことと、特注大筆を得たということが同時に起こった。教職を捨て、無頼の浪人書家となった一人の男の真剣勝負の場には常に大筆がいた。その頃から、考え方、仕事、そして人生が大きく変化し始めた。書家という肩書きの他に「パフォーマンス・アーティスト」というもう一つの顔を持つこと、24時間365日、ただただ作品を作るためだけに費やせる生活を営むことは、週末だけ芸術家であった私を「アーティスト・柿沼康二」にせしめた。そして、この大きな筆はメディアや海外活動において私を象徴する上で不可欠な武器となり、私の可能性を大きく高めてくれた。そして今回のアメリカ滞在にも、唯一無二の相棒として共に米国に移り住んできた。
この相棒は、モンゴルの馬何万頭から数本しか採れない長さ60cmの毛を数万本も使っており、それだけの量の毛を集めるのに数年かかると言われている。また大概の大筆は筆洗いの際、根元に残った墨が腐りの原因となり、直ぐに破損してしまうので、寿命がすこぶる短い。そのことを知る私は、大筆を7つのパーツに分解でき、使用後に筆毛の隅々まで完全に乾燥できる全く新しいスタイルの筆作りを考案した。パフォーマンス時には大抵その筆の組み立て作業から見せることにしているが、その様子はまるで大型機関銃に弾を込めているように物々しい。元の重さが20キロ、毛が良質なためバケツ一杯の濃墨を一発で吸い込んでしまい、パフォーマンス時最初の落筆の瞬間にはその重さがMAX50キロに及ぶ。そして一度使うと筆洗いに4時間かかる。何もかも破格の大物筆なのだ。
人間そのものが露呈するアート・パフォーマンス
「凄いことをやって欲しい、だけど、安く、汚さず」という主催者側の無理な注文と戦いながら、この大物筆をガンガン振り回し、毎回全く違う内容と設定で7年間に20回以上のパフォーマンスを世界中でこなしてきた。たった数分間で太さ1メートル以上、大きさ5メートル四方にもなる巨大文字を書き上げる行為、筆と取っ組み合いをしながら宙を舞い、地を這い、雄叫びをあげ、やり直しがきかない一回性の世界。その刹那の中で、文字に宿された言霊とそして神と交信し、単なる字に言霊を宿し、上品に、アバンギャルドに、文字を化けさせる。そして精神と体力の限界、自分の弱さ強さと徹底的に対峙(たいじ)する。最後には頭が真っ白になり、事後一時間は朦朧とし無我状態が続く。後先を考えず、己の命を燃焼させることに、その一瞬に全身全霊を懸ける。
人はアートの狂気の中に自分を照らし、自分と他者との違いを知り、自分が何者かを知る。だからアートは人を魅了するのだ。そしてパフォーマンスとはすなわち身体を媒介とした芸術表現。アーティストがそこで正気を見せても、何の意味もない。上っ面だけで虚飾に満ちた技術は、何の感動も生まない。真剣勝負の際には実生活や鍛錬の中だけで体に沁み込んだものしか出てこない。如何に普段の生活が大切か。狂気をも含んだ人間の営み、生活、人間そのものが如実に露呈する瞬間、それが私にとってのアート、そしてパフォーマンスなのだ。
武道、サムライ、ROCK、爆発、などと度々紹介される私のアートパフォーマンスは、単なる文字を書いて見せるだけのそれを超えて、書道にかかわりの無い人にまで熱い何かを伝えるようだ。某美術評論家は、私の大作作品を見て「柿沼は脳みそまで筋肉だ」と言った。またTVを見た或ファンは「筆が刀、墨が血しぶきに見えました」と言った。
書のようで書でもなく、絵のようで絵でもない
過去、海外において「絵画と比較すると、書は直ぐにできてしまうから、価値が低い」と何度もクレームを付けられた経験がある。しかし、今では「柿沼の書は、書でも絵でもない。新しいアートだ。グレートだ」と言われるようになった。書のようで書でもなく、絵のようで絵でもない。一切の迷いと妥協を許さず、計算と洗練の果てに生み出されるその一瞬には私の命が燃焼し爆発する。そこに日本文化全体を理解する上で不可欠な時間感覚と魂が存在するのだ。「永遠の刹那」、米国で「Eternal Nowエターナル・ナウ」と私のアートに対して名付けられた所以だ。
「永遠の刹那」、それは、「書」のみならず日本文化全てに内在される神秘性、そして奥義であるという確信を得たことが、この一年の大きな収穫であった。この超然とした時間感覚と気合、集中力の中に海外の人たちは、日本人独特の精神や歴史を見るのだ。そして1アーティストとして存在し、1アートとして成立させるために必要とされるのは、それらを自分独自の新たな方法論で表現しなければならないこと。過去の先人達のお手本をゴミ箱に捨てることから始まる。歴史の咀嚼は勿論、それを踏まえた上で、現在、何百何千年の未来をも踏まえた仮説を立て、自分独自のストーリーを作り上げること。その物語にアメリカ人に酔わせること。今回の武者修行で、確実に自分の方向性が見えた。足掛け10年、その間欧米で様々な仕事をし、やっと全ての矛盾が一つなった瞬間の喜びは言葉にするのは難しい。
帰国しても、相変わらず外国からの仕事が続いている。来年、ワシントンDCの世界的権威のあるケネディーセンターで開催される「JAPAN!Hyper+Culture Festival」に参加する。来年2月が本番なのだが、それに加え9月にマスコミ、スポンサー向けに開催されるプレイベントにて私の一大パフォーマンスを披露することになった。私は、書家というカテゴリーから選出されたのではなく、アーティストとしての参加である。「書家」という肩書きは、今の私、そしてアメリカという地には必要が無くなったようだ。柿沼康二という名の道に大きく刻まれることとなる歴史的祭典。切符は既に手の中にある。
世界行きの切符となるか、その場限りの切符で終わるか、それは全て私の力次第である。
(書道芸術社「日本書法」 2007年9月25日号)