(財)独立書人団 研究収録より
書の海外性についての私考
1年間のNY留学中、個展を開いた。以後勝手な考えを述べます。
(海外ウケ)
箔をつけるため海外展を開き日本で賞賛を得るパターンが目に付く。受けを狙い無理に形を壊したり、色をつけて誤魔化したりする展覧会が多い。
実際は、一定の価値観が存在しないため、これが受ける、あれが受けるということは言い難い。大切なのは、作品に美が存在するか否かである。また、売れるアーティストは優れているという傾向が強いが、それでよいものか?
(理想と現実)
NYには日系のギャラリーや総合ミュージアムも多く、ただでさえアートに関心が深い上、日本文化に精通している外国人が多い。NY近代美術館やジャパンソサイアティー、正式なギャラリー(レンタルでない)で大々的に展覧会を開くことが本当の書の国際性に繋がると思う。しかし、プロポーサルの方法は個人レベルでは非常に難しい。
(テーマ)
作品、且つ展覧会を通してのテーマを持つことは国内外問わず重要である。
(外国人の誤解)
文字を使いデザインするカリグラフィーとの違いが分らない。時間性に関わる流れを感情移入できない。よって書はデザインや絵のようなものとしてしか受け入れられていない。漢字の多さや三要素(形・音・義)書風の多様性や規範性に驚く。日本の書と中国の書の違いが分らない。(中国書の物まねと思っている)
(書道の体系化)
書の分らない外国人や未だに書を第二芸術と思っている人達に分りやすく正確に書の歴史や教育的意義を伝えねばならない。これは、ギャラリーやミュージアムへのプロポーサルに不可欠。
(環境)
街中にアートが氾濫し人々の関心が高い。作品が良いかどうか、何ができるかが問題であり年齢や肩書きは通用しない。良いものは何でも取り入れる開拓スピリッツと駄目なもの無駄なものは消え去るといった真の弱肉強食の世界。
(言葉)
随分英語に苦しんだ。芸術や文化論ともなると存在しない言葉や概念がある。展覧会などの際、できれば作品や書的概念を説明したりして自分独自の考えをストレートに伝えたい。
(コンピューター)
現在はスピードの世界である。「そんな物は、、」といっていられない時代になった。E−MAILやホームページで海外とアクセスするのはむしろ自然なこととなりつつある。書の海外性にも不可欠である。とにかく何もかも合理的で速い!
(書籍の翻訳)
英語版の著書が少ない。書の項目をインターネットで調べると検索に引っかからない。論分や啓蒙書を翻訳し公開する必要がある。意外に海外の書道研究者の論文に良いものがある。(インターネットで検索可)
(視覚効果)
書の制作を考えたときまさに時間芸術である。外国人に関わらず日本人でさえ制作風景を見たことが無いわけである。展覧会の際にデモンストレーションなどのビジュアル効果をプログラムに盛り込むのは効果的である。
(コンペティション)
海外の博覧会やアートフェスティバルにどんどん参加しなくてはならないと思う。
書が芸術であるなら海外性という考えが当然出てくる。しかし書の国際性ははたしてあるのか? 必要なことか? と冷静に考えてしまうのはなぜか? 戦後、書は一時的に海外で賞賛を得た。しかしそれを発展させてはいない。もう一度、「書の国際性とは何か?」と真剣に問い直さなければ、単なる海外への憧れで終わるか、過去の栄光にすがりついているだけである。。作家にっとてまず何より良い作品を作ることが大切である。が、もし今後海外性を求めるのならば、相当の精進が必要である。
たくさんの人達にお世話になりました。このような機会を与えてくださった師や独立の先生方、黄田社の仲間、友人そして家族に心より感謝いたします。